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​樫尾直樹 Naoki Kashio's Articles

Articles

article 1: スピリチュアリティとは何か―霊性と現代霊性文化の諸相―

article 2: 瞑想と臨床―不二の道としてのスピリチュアリティー

article 3: 緊張を解くスピリチュアリティ-感じる心とからだを回復する-

article 4: Les nouvelles voies spirituelles au Japon : état des lieux et mutations de la religiosité

article 5: L'influence de l'ésotérisme occidental sur les religions japonaises : théosophie, bouddhisme, nouvelles religions

article 6: LÉGITIMATION DE LA PRATIQUE ET DE LA PENSÉE DES NOUVELLES RELIGIONS AU JAPON : L’EXEMPLE DE SÛKYÔ-MAHIKARI

article 7: 比較瞑想論と宗教間対話―宗教研究の実践論的転回へ―

article 8: 実験的宗教間対話の課題 

article 9: The End of the Vitalistic Conception of Salvation: An Inquiry into Conceptual Validity in Modern Japanese New Religions

article 10: A General Theory of Japanese Meditation (Forthcoming)

 

article 1: スピリチュアリティとは何か―霊性と現代霊性文化の諸相―   樫尾直樹

(樫尾直樹編『文化と霊性』慶應義塾大学出版会、2012年、pp.1-32.所収)

 

1 スピリチュアリティ文化の諸相と社会文化的背景

 スピリチュアルブーム、スピリチュアル・スポット、パワースポット、『もののけ姫』、スピリチュアルケア、『心のノート』、四国遍路、ディープ・エコロジー、アルコホーリクス・アノニマスという断酒会、いのちの教育、そしてヨーガ、瞑想、ニューエイジ的な新宗教、さらにはスピリチュアルな経営理念等々・・・・・・。

 「スピリチュアル」や「スピリチュアリティ」(1)という言葉で当事者が自称したり、あるいは周りからそう呼ばれたりする、特に一九九〇年代以降顕在化してきた一連の文化現象がある。このような現代の文化の動向を、私を含めたそれに関心をもつ研究者たちは、「スピリチュアリティ文化」あるいは「霊性文化」という術語で概念化している。

 なぜ、九〇年代以降、スピリチュアリティ文化が顕在化してきたのだろう。

 それは、六〇年代以降の、体制批判に基づいた非(反)近代的な社会政治文化運動に端を発している。モダニズムの科学技術主義が、環境破壊や人間性を無視して展開されていく中で、六〇年代の学生運動や対抗文化は、近代的な体制を批判し、新しい非近代的なライフスタイルを探求した。七〇年代に入って、オイルショックはあったものの経済的な豊かさを達成した日本人は、次に、それだけでは充たされない心の豊かさを求めた。つまり、人間にはそうした普遍的な欲求があるが、それが近代合理主義的な考え方や生き方では満たされないことに、七〇年代以降、多くの人々が気づいてきたのである(2)。

 そうした気運の中で、目に見えないものに対する関心が高まり、七〇年代から八〇年代を通して、気功やヨーガ、セラピーや神秘主義思想など、「精神世界」(ニューエイジ)と呼ばれるスピリチュアリティ文化が起こってきた。

 スピリチュアリティ文化の興隆の背景には、このような近代批判があるが、その半面、アメリカ合衆国の影響による新自由主義の反動として説明することもできる。九〇年代以降、我が国では、バブル経済の崩壊後、負け組を救済するセイフティネットが十分整備されてこなかったばかりか、小泉内閣などによって新自由主義的な社会制度や経済制度がさらに推進されたので、社会の未来に大きな不安を感じる人々が増えてきた。現代日本社会では、一旦社会のレールからはずれるとなかなか復帰することができないようになっているのである。

 このような先の見えない不安の時代を、人間関係や個人の実力といった世俗的な要素だけで生き抜いていくことはたいへん難しい。そこで、人生の苦難や心の空しさに直面すると、科学技術によって「世界が操作できる」という観念を応用して、神仏や霊という見えない力=「スピリチュアル」を使って、不確実な現実と自分の運命をなんとかして操作し、自己実現したいという欲望が生まれてきた。不確定な時代を生きる人々の普遍的なスピリチュアル欲求やスピリチュアリティに対する関心に呼応して、スピリチュアリティ文化は誕生してきたのである(3)。

 さて、スピリチュアリティ文化の社会文化的背景について簡単にまとめたが、再び冒頭に挙げた文化現象リストを見てほしい。

 それにしても、ちょっと見ただけでもなんと多様なラインナップだろう。「スピリチュアリティ」という言葉でまとめたとしても、各文化現象に共通する「スピリチュアリティ」とはいったい何なのだろう、同じ社会文化的背景から現象してきたのだとしても共通するものなどないのではないか、というのが率直な感想なのではないだろうか。

 じっさい、たとえば官製のスピリチュアル教育の教材である『心のノート』で書かれている連綿と続くいのちのつながりには、『もののけ姫』や江原啓之氏のスピリチュアルブームで中心的観念として採用されている精霊や死霊、霊魂といったアニミズムは登場してこないし、アルコホーリクス・アノニマスで断酒を継続するために観念される「自分で理解した神」「ハイヤーパワー」を、経営理念として採用されている「スピリチュアリティ」や四国遍路による自分探しの中に観察することはできない。

 とはいえ、「スピリチュアリティ文化」というふうに「スピリチュアリティ」という言葉を冠して上記の諸文化現象を括る以上、「スピリチュアリティ」という共通点はやはりなくてはならないのだが、それが見えにくいのは、「スピリチュアリティ」自体がじつに多様で、いくつかの層を描くスペクトルだからである。各スピリチュアリティ文化現象は、その固有の関心と体験から、そのうちのひとつかいくつかの層に限定して焦点をあてているので、結果としてそれぞれが志向し主張する「スピリチュアリティ」の意味が異なり、あたかも共通するものがないかのように見えるのである。

 ここではまず、多様なスピリチュアリティ文化諸現象を類型化した後、それらがスピリチュアリティのスペクトルのどの層に位置づけられるのかを見た上で、それら全体に共通する「スピリチュアリティ」の本質を指摘し、その類型化およびホリスティック(全体的)な定義を行って、第I部以降の本論の理解の一助としたい。

 

2 スピリチュアリティ文化の四類型

 冒頭で挙げたスピリチュアリティ文化現象は、医療、食、エコロジー、職場、教育、そして宗教といったさまざまな社会文化領域を横断しており多様ではあるが、管見によればその内容から、臨床文化、宗教文化、環境文化、および大衆文化の四つの類型に分類できる(4)。

 

臨床文化

 「臨床文化」とは、対面的なコミュニケーションの中で、人間同士が他者の苦しみや悩みや疑問に共感し、それを分有して人生のさまざまな問題を受け止め、解決していこうとする文化動向であり、心理療法やカウンセリング、ヒーリングの思想と実践であるセラピー文化を含んでいる。対人関係やその他の人生の問題の原因を、社会制度や道徳の衰退にではなく、心のあり方に求め、意識を変容させるさまざまな実践によって、結果的にそうした問題の解決を図ろうとする態度に特徴がある。

 特に、医療の現場のスピリチュアルケアが代表的である(5)。死生のケアであるスピリチュアルケアは、八〇年代から行なわれてきた終末期医療(ターミナルケア)である。そもそも、「スピリチュアル」や「スピリチュアリティ」が、日本語として使われるようになったきっかけを作ったのが、このスピリチュアルケアである。

 末期ガンになったとき、体の痛みはモルヒネで抑えることができる。心の痛みは、家族や友人が見守ってくれることで和らげられる。しかし、魂の痛みは、なかなか緩和されにくい。魂の痛みというのは、「なぜ自分だけがこんな病気になってしまったのか?」「自分の人生の意味はいったい何だったのか?」、あるいは「死んだらどうなるのか?」といった、誰しも終末期に抱く問いの痛み、スピリチュアルペインである。

 近代医療には、こうした魂の痛みを緩和する方法はなかった。近代化によって、そうした問いに答える役割を果たしていた宗教が排除されてしまったからである。スピリチュアルケアは、そうした宗教が果たしていた役割を代替する緩和医療である。ケアワーカーが患者と信頼関係を作り、傾聴と対話によって、患者が自ら魂の痛みに対する答を見つけていく。そうしたいのちの過程である。

 また、こうした臨床文化は、教育の場面でも見いだされる。教育の現場では、たとえば公立の小中学校でスピリチュアル教育が行なわれている。『心のノート』という教材を使って、私たちのいのちはいまどうしてここにあるのか、どのような過程で連綿といのちはつながっているのか、あるいは私たちは独りで生きているのか、大いなる自然や地球、宇宙の中で生かされているのか、という実存的な問いかけを自ら発しながら、その答のない果てしなく続く問いを、生徒と先生が共に生きるのである(6)。

 

宗教文化

 次に「宗教文化」は、スピリチュアリティを宗教(特に教団)と区別して考える立場からすれば、スピリチュアリティ文化には含められない。しかし、教団の中には、ネットワーク型の比較的緩やかな組織形態をもちながら、信者個々人のスピリチュアリティを向上させていこうというところも新宗教を中心として少なくないし、近年ブームとなっているヨーガや坐禅、ヴィパッサナー瞑想といった瞑想は、元来、仏教やヒンドゥー教といった伝統的な宗教文化の中で培われてきた。それゆえ、宗教文化を現代のスピリチュアリティ文化の主要な類型に数えないわけにはいかない。後述するように、スピリチュアリティの深度という点では、一般の実践者と達人宗教家とではずいぶん異なってはいるものの、そうした諸瞑想は、現代に生きる私たちの日常生活の中に取り入れられることによって、より良く生きるために大いに活用されている。

 各宗教によって瞑想の実践は多様だが、比較瞑想論の観点からすれば、その意識変容の過程と効果にはある一定の共通点がある。

 以下、比較瞑想論の視座から、瞑想の過程と効果について分析することを通して、瞑想がもたらすもの(果実)としての「スピリチュアリティ」について端的に説明しておこう(7)。

 一口に瞑想と言っても、宗教によって異なるし、ひとつの宗教の中でもいろいろな瞑想の方法がある。とはいえ、類型化して整理できないというわけではない。私は瞑想の一般類型を大別して、1.単純化、2.現前化、3.倫理化、4.表出化の四類型に分類している。これら四類型はそれぞれ四つの実践素に分類できるが(8)、ここでは「スピリチュアリティ」の生成を最も理解しやすいと考えられる、1.単純化を例に挙げて説明してみたい。

 単純化とは、意識を単純にしていくことを第一義とした瞑想実践である。その代表的なものは、坐禅である。坐禅は、結跏趺坐か半跏趺坐で背筋を伸ばして座って、半眼で前下方をただ漠然と眺めるという仏教の身体実践である。「前下方をただ漠然と眺める」という実践から、私は坐禅を「眺瞰」という実践素に分類している。

 坐禅という眺瞰瞑想は、「止観」の実践である。「止観」の「止」とは、いま自分が経験している世界を一旦止めることで、「観」とは、そのあるがままの世界を見るということである。

 私たちは、ふだんの生活では、きれいな(かっこいい)人が通ったら、あっ、いいなとか、いい臭いがしてくれば、あっ、これ食べたいなというふうに、心はいつも周りの世界からの刺激で波だっている。この「あっ」という刺激と反応の気散じの中で、私たちは生きているのである。

 しかし、坐禅をすると、いろいろな想念が流れていった後、瞬間的にでも無心になることがある。この無心の状態というのは、物思いにふけっているぼけ~とした意識状態ではなく、はっきりと目の前の現実を見ているけれども、その現実に心が動かされていない状態のことである。

 このとき、私たちは、通常意識を文字通り単純化させ、流れ行く現実を一旦止めているのだ。意識が、この現実の世界を一旦止めるという状態に入っていくと、意識全体の動きから、「あっ」という心=表層意識の働きが遮断されて、意識の深いところ(深層意識)に、もうひとりの自分が生まれてきて(あるいは、もうひとりの自分に気がついて)、いま座って半眼で前方を見ている自分を「見る」。これが「止観」、すなわち坐禅という瞑想で起こることである。

 静かに座るという反復行為を通して、もうひとりの高次の自分が、いまの自分を見る。しかし、坐禅では、こうした意識していることを意識するという、いわば意識の意識化という事態に留まらない。さらに興味深いことに、表層意識の影響をあまり受けないということは、言葉によって世界を切り取って(分節して)理解するという、意識の分節、分別機能が低下していくということである。そうすると、自分と自分以外の他人や物や世界を区別したり、差別したりしない意識が、私たちの深層意識の中で生まれてくるのである。

 宗教文化にはほかに巡礼がある。巡礼としては、近年ブームになっているものに四国遍路がある。四国遍路は、真言宗の開祖、弘法大師、空海が開いた、四国にある八十八カ所の寺を巡拝するものである。宗教を問わず、年間二〇万人の人々が遍路している。遍路した人たちの中には、自分たちの体験をブログにアップしている人が少なくない。

 そこで彼/彼女らが語っているのは、遍路とそこでの出会いを通して、人生の意味について深く考えることができ、大きな気づきがあった、というものが多い。亡き祖父母や両親があの世で元気でやっていることがわかったという体験談もある。このように、遍路においても瞑想と同じような自己否定的な自己意識の変容がじっさいに起こっているのである。

 

環境文化

 「環境文化」の代表的なものは掃除とエコロジーである。

 たとえば「日本を美しくする会」(「掃除に学ぶ会」)というNPO法人という、家庭はもちろん、自分の職場やその周りを掃除する会がある。掃除とは、空間を美しくするだけではない。掃除することが、自分の魂を磨くことにつながると考えられている。プライベートな場所だけではなく、ふだん使う公共の場を掃除することを通して、自己を越えた利他的な心を養うことができる、とするものである。こうした実践はいわば「心のエコロジー」と表現できるだろう。

 また、ディープ・エコロジーは、一九七〇年代前半にノルウェーの哲学者アルネ・ネスが提起したもので、反人間主義的ないのちの平等主義に基づいた、グローバルでラディカルなエコロジー運動である。人間が自然を保護するのではなく、人間もその中の一部としていかに共生するかが目指されている。我が国では、環境と平和を志向するエコロジカルな共同体建設を実践した山尾三省(9)や、自然農法の創始者である福岡正信(10)が先駆的活動家として挙げられる。

 大衆的なエコロジーの展開としては、近年、コンビニやチェーン店居酒屋で、有機野菜を使った商品が販売されていたり、有機野菜の宅配サービス会社がたくさん設立されたりしている。それは、有機野菜はおいしくて健康によいという理由だけではない。こうした底流には、化学肥料を使って自然を破壊するのではなく、自然のサイクルを大切にしようというエコロジーの思想がある。私たち人間は、自然と一体であり、自然に生かされているのだから、自然と共に生きることが大切である、という考え方である。

 

大衆文化

 最後に「大衆文化」である。大衆文化には、霊的世界を表現する「表象文化」と、霊的世界と交流する「スピリチュアリズム」があるが、表象文化の代表的なものは、『千と千尋の神隠し』(二〇〇一年)や『もののけ姫』(一九九七年)といった宮崎アニメである。それぞれ日本映画興行成績の第一位と第三位で、のべ数千万人が観た。神霊が宿る聖なる自然という宗教的なもの、すなわちスピリチュアリティへの共感がテーマである。精霊や森の神が出てくるからといって、誰もオカルトとは思わない。というのは、映像というエンタテイメントだからである。観客は、宮崎アニメを見て、霊を操作して現世利益を得ようとは考えない。

 「千の風になって」という歌は、死後も魂が、光、雪、鳥、星、そして風になってあり続けることを歌っている。作家でシンガーソングライターの新井満が二〇〇一年に訳し作曲した。テノール歌手の秋川雅史が二〇〇六年に歌ってヒットし、その年の紅白歌合戦でも歌われた曲である。これも、宮崎アニメと同じように、死後の魂の存続をテーマとしている、スピリチュアルな作品である。

 これに対して、霊的世界と交流する「スピリチュアリズム」として、江原啓之氏を中心として展開されてきた「スピリチュアルブーム」がある。「スピリチュアリズム」とは霊的存在や目に見えない力と交わることによって、現世利益を得ようという思想と実践である。

 現在でも、日本で、「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」という言葉を聞くと、多くの人は、依然として、テレビ番組「オーラの泉」(テレビ朝日系)に出演していた江原啓之を思い出すのではないだろうか。「オーラの泉」とは、江原や美輪明宏らが出演し、「霊視」によって有名人の前世や隠れた性格を当てる人生相談番組で、二〇〇五年四月から二〇〇九年九月にかけて放映されていたものである。

 江原のテレビ番組での発言がきっかけで、沖縄の斎場御嶽や久高島といった「聖地」と呼ばれる場所に、若者を中心としてたくさんの人たちが訪れるようになったという。こうした場所は、「パワースポット」と呼ばれており、そこに行くことによって目に見えない力を自分のものにすることができるとされている(11)。

 あるいは、この数年来「パワーストーン」が流行っている。水晶やアメジストなどの鉱石の中で、自分に合った石を部屋に置いたり携帯したりすることで幸運をもたらす、というふれこみで販売されているもので、全国的なブームになっている。

 また、「スピリチュアル・コンベンション」(通称、すぴこん、現在は「スピリチュアルマーケット」と呼称変更している)という、占いやヒーリング、マッサージといった「精神世界」の見本市というのもある。一九九〇年代に開催されていたフィリ・フェスティバル(一九九〇~二〇〇二年まで雑誌『FILI』を刊行していた、フィリという「精神世界」を促進する団体で、現在はウェブを中心に活動を展開している)を、継承するようなイベントであり、今世紀に入ってから、日本全国の都道府県でほぼ毎月一回は開催されている。

 

3 スピリチュアリティのスペクトル

 さて、以上、臨床文化、宗教文化、環境文化、大衆文化の四つの類型から現代のスピリチュアリティ文化の特徴を略述した。次に、こうした多様な文化類型として表出される「スピリチュアリティ」の多層性を示した上で、各文化がどの帯域に位置づけられるかを考察したい。

 

意識階層論的スペクトル

 インテグラル理論に依拠すると、事象は、身体、意識、文化(世界観)、および社会(環境)の四つのアスペクトから全体的統合的に捉えられるし、そうする必要があるが、ここでは説明を単純化するためにさしあたり、スピリチュアリティの特徴を最も明確に表すと考えられる意識の象限に焦点をあてて、スピリチュアリティのスペクトルを示す(12)。

 意識論的には、スピリチュアリティとはまず「通常の表層意識を超えて拡大した意識」であると定義できる。ただし、表層意識を超えた深層意識の帯域はひとつではなく、多層的である。こうした多層的意識のあり方を意識階層論的に解明しようとした試みは少なくないが(13)、ここでは東洋哲学の共時的構造化という壮大な試みを行った井筒俊彦の、唯識を援用した比較哲学的な意識階層モデル(14)を私なりに幾分緻密化したもの(M中間領域を意識の差異に従って三つの帯域(M1、M2、M3)に分割したもの)を使って説明することにしたい(図1参照)。

 自身も独特な内観瞑想を実践していた井筒は、表層意識(A領域)の下にある深層意識を便宜的に四つの階層に分けて説明している。夢のイマージュ(M2)や、シャーマニズムや密教が活用するような、一部の神仏や霊的存在があるペルソナをもって仮象として住まう「想像的」イマージュ(M3)の場所であるM中間領域、ユングのいう集合無意識の領域で「元型」成立の場所である言語アラヤ識の領域であるB領域、存在論的流動状態のカオス的無・意識の領域であるC領域、そして、絶対的無分節者である、意識と存在の窮極的ゼロポイントの四つである。M中間領域と魂の次元の一部と捉えれば、中川吉晴が言うように、ここには、「生きがいや存在意味が開示されてくる次元」(15)である自他の区別を超えた実存的な意味の場所(M1)を分節することができるだろう。また、意識のあり方を、感情や思惟としての心、絶対的存在との合一の意識を霊(スピリット)、その中間にあって心と霊を結び、イマージュ(元型)と実存的意味を生み出す場を魂(ソウル)とすれば、心はA領域、魂はMとB領域、霊はC領域と意識と存在の窮極的ゼロポイント(真如、絶対的無分節者との非二元的一致、あるいは悟り)に相当する(16)。

 では、先に略述した、臨床文化、宗教文化、環境文化、および大衆文化という、スピリチュアリティ文化の四類型において表出されるスピリチュアリティは、このスペクトルのどの帯域に位置づけられるのだろうか。

 

臨床文化の帯域

 まず臨床文化のスピリチュアリティは、その特徴が基本的に実存的な生死の意味やその消息に対する切実な問いかけであるという点からすれば、魂の次元の生きがいや実存的意味が生まれる場であるM1領域にあると言える。もちろん、たとえばスピリチュアルケアの場面であっても、臨死体験をしたり、固有の宗教的信念と世界観にしたがって神仏といった絶対的存在となんらかの形で交感したりすることがある。また先に触れたように、アルコホーリクス・アノニマスという断酒会では、「ハイヤーパワー」という「自分で理解した神」に向き合いながら断酒を継続するという事例もある(17)。この点からすれば、臨床文化はM1領域だけに留まらず、ときにM2(イマージュ)やM3(神霊的存在の顕現)という魂のより深い帯域において、そのスピリチュアリティを感得、表出することがある。

 

宗教文化の帯域

 次に宗教文化のスピリチュアリティについてだが、結論から言えばM1から意識と存在のゼロポイント(真如)に至るまでのすべての深層意識帯域に股がっている。前節では坐禅という単純化瞑想を事例にして説明したが、どの瞑想行実践においても可能性としては誰に対しても、最も深い真如の帯域にまで自己意識を超越していくことができるとされている。しかしじっさいは、ごくごく一部の達人宗教家しか霊の次元に行くことはできないし、教団によっては瞑想行実践のさしあたりの到達目標を、生死の実存的意味や、自他無分別による隣人愛や利他的奉仕といういわばM1帯域に絞っているところも少なくない。絶対的存在との合一や一致は職業宗教家の目指すところであり、一般人は彼らを媒介として絶対的存在の臨在を感じることができればいいとするからである。

 あるいはきわめて興味深いことに、禅宗のようにM中間領域の特に、M2やM3帯域を「魔境」として最初から相手にせず、より深層のB領域(言語アラヤ識)やC領域、そして最終的には真如(意識と存在のゼロポイント)に一気に到達しようとする宗教もあれば、逆に真言密教のようにM中間領域のイマージュの世界をふんだんに活用することによって、一挙に真如へと到達しようとする宗教もある。

 したがって、主体やその志向性によってスピリチュアリティの意味内容は、M1帯域から真如まで千差万別であるということになる。

 

環境文化の帯域

 では環境文化はどうだろう。環境文化のスピリチュアリティの特徴は、その環境が自然であろうが人工的な都市空間であろうが、環境の中で生かされ、環境とともにあることを大切にし、それを美化や生態系の維持という実践によって現実化することである。この点からすれば、このスピリチュアリティは、M1にあると言える。ただし、ディープ・エコロジーのように非人間主義的な生命平等主義の立場からすると、人間以外のいのち、魂的基体を尊ぶことが最も重視されるので、M1帯域に留まらず、M3帯域にまで深まることもある。

 

大衆文化の帯域

 最後に大衆文化のスピリチュアリティについて考えてみよう。大衆文化の第一の側面である、霊的世界の表現である表象文化は、表象文化であるゆえに、アニミズム的な霊的世界観を受け手が自らなんらかの実践をすることなしにただ受容するだけである、という点に特徴がある。この点で他の三つの文化とは異なっている。したがって当事者の意識がその受容によって大きく決定的に、ときに不可逆的に変容することは多くはない。表現されている世界はイマージュや神霊的存在といった魂の次元のモチーフであるとだけここでは指摘しておこう。

 大衆文化の第二の側面である、霊的世界とのスピリチュアリズム的交流は、江原氏のような霊能祈祷師、パワーストーンという石、あるいはパワースポットという場所という媒介者を媒介として成立する。それら媒介者は、現実世界に影響を与えうる超越的な次元の力を媒介できるとクライアントから信じられている。霊能祈祷師は神霊的存在やそのメッセージとされるものを活用しながら、生死の実存的意味やパワースポットの隠された意味をクライアントに伝達する。いわば霊的言説によって修飾表現された道徳的倫理的メッセージのコミュニケーションである。霊能祈祷師の役割をパワーストーンの製作者や売り手が代替することもできる。以上からすれば、このスピリチュアリティは、M1からM3帯域に位置づけられると言える。重要なことは、霊能祈祷師たちが、「C領域や真如において私は神を出会った、神とひとつになった」と主張したとしてもそれは禅宗的に言えば魔境でしかないということであろう。だから、大衆文化のオカルト的スピリチュアリティと、達人宗教家のこのうえなく深いスピリチュアリティとは、仮に同じ言葉を使ったからと言って、大きく次元を異にすると了解しなくてはならない。

 さて、ここまで見てきたように、同じスピリチュアリティ文化の中の類型と言っても、各文化類型が志向するスピリチュアリティはそのスペクトル上の帯域、意味が微妙に異なっていることが理解できる。ただし、大別して言えば、臨床文化、環境文化、および大衆文化は魂の次元であるM領域を指してスピリチュアリティと言っているのに対して、宗教文化は宗教毎の比重と力点の差異はあれ、達人(職業)宗教家のある部分の人たちは、B領域、さらにC領域、最後には絶対的存在との非二元的合一や一致を志向している、とまとめることができる。

 同じ「スピリチュアリティ」という語を使って自らの体験と目標を表現したとしても、魂の次元と霊の次元とでは大きく異なっていると言わざるをえない。この点をわきまえないと、「スピリチュアリティ」をめぐる相互理解や議論はできなくなってしまい、一方で実践者は自己の体験を絶対化し内閉化し、他方で研究者は、実践者の「スピリチュアリティ」言説の意味するところを解釈するだけに終わり、結局ある固有の体験に根拠づけられた「スピリチュアリティ」の内実に迫ることはできなくなってしまうのである。

 

4 スピリチュアリティとは何か―本質・二類型・定義

 本章では、現代のスピリチュアリティ文化の社会文化的背景を探り、その諸相を四つの文化類型から明らかにするとともに、各文化類型に表出されている「スピリチュアリティ」の特徴を意識階層論上の帯域の差異として理解してきた。

 最後にこれまでの考察から、表層意識から各深層意識帯域への意識変容的移行過程に共通する点を摘出することを通して、「スピリチュアリティ」の本質を明らかにし、その作業をふまえて「スピリチュアリティ」の二類型を示した上で、その定義をして、本章の序章としての役割を果たすことにしよう。

 

本質

 前節で見たように、意識階層論的にもっとも意識の深部にまで到達しようとする(限りなく深い意識状態になる)のは宗教文化であった。そこでまず第2節で取り上げた瞑想を事例として、意識帯域の深化の特徴を指摘する。

 坐禅という単純化瞑想において最も大切なのは次の点である。すなわち、坐禅によって、いまある今までの自分が、意識の意識化や自他無分別の意識によって、「否定」されているということである。

 この「自己否定」というモメント(18)は、坐禅だけではなくあらゆる瞑想に共通している。たとえば同じ単純化瞑想の実践素である、ヴィパッサナー瞑想のような「観察」の瞑想では、自分の呼吸を観察したり、動作のひとつひとつに内語を発することで観察したりするとき、坐禅と同じような自己否定の局面が生まれる。あるいは、同じく読経や唱題や念仏のような特定の唱え言葉を反復する「集中」の瞑想でも同様である。

 達人宗教者の場合は、こうした自己否定の過程はさらに深化し、神仏といった絶対的存在との出会いや合一といった、C領域や意識と存在のゼロポイントで生起する神秘主義的体験へと向かう。井筒モデルによれば、瞑想による意識変容の過程は、表層意識から離れ、M1、M2、M3、B領域という魂の次元、そしてC領域という霊の次元、さらに意識と存在のゼロポイントへと、自己否定を繰り返して深化していくと説明することができる。また、稀代の宗教家・瞑想家で、自己の神秘体験を科学的に解明しようとしてきた科学者でもある本山博は、宗教経験の各段階には自己否定のモメントがあり、その過程は、単純な一致→エクスタシー→神霊との全き一致、という同じ三つの階梯をたどるという(19)。

 最終的に絶対的存在が自己の中に流入してくるとき、自分の存在が完全に消滅してしまう絶対的な受動性が、自己否定の真骨頂である。

 宗教を当事者である宗教者の立場から内在的に理解しようとすると、他者救済以外の宗教の主たる指標は、神仏という絶対的存在との出会いや合一ないしは一致、あるいはその内面化という、いわば神秘主義的体験であろう。日本の禅を世界に広めた禅者、鈴木大拙は、宗教の本質を、教えや儀礼や秩序などではなく、そうした宗教体験そのものに求め、そこで醸成される宗教意識を「霊性」(=「スピリチュアリティ」)と呼んでいる(20)。

 以上のように、瞑想実践のさまざまな段階で―差異を伴いながらではあるが―生ずる自己超越意識という自己否定こそが、瞑想という宗教文化の実践的中心から理解されるスピリチュアリティである。

 では、宗教文化以外の臨床文化、環境文化、大衆文化はどうだろう。

 臨床文化では、たとえばスピリチュアルケアの場合、ケアワーカーとともにクライアントが自分の死を受け入れる(ときに固有の死生観や世界観を獲得する)とき、その人は現実世界の実利的な生き方を放棄し、自分のかけがえのないいのちや生死に真正面から向き合う。これは自己肯定の過程でもあるが、ここで肯定される自己とは、自分の来るべき死やそうした運命に対して怒り、葛藤していた自己ではなく、そうした自己が否定されて、生きようとし死を受け入れようとする新しい自己である。ここに瞑想実践が実現する自己否定と同じモメントが観察される。

 アルコホーリクス・アノニマスにおいて、先行き仲間とのコミュニケーションを通して「自分で理解した神」「ハイヤーパワー」と向き合いながら断酒を継続している自己とは、それまでの断酒を継続できなかった自己ではない。ある絶対的存在の臨在と仲間との寄り合いの場の力によって、それまでの自己は毎日否定され続け、断酒を継続している新しい自己がこれまでの自己を見て日々引き上げようとしている。覚醒のスピリチュアル教育の現場においても教師と生徒との間実現しているのはこれと同じ自己否定の場だろう。

 環境文化は、自然環境であれ社会環境であれ、人間がそうした環界の中で生かされており、環界との共生の中でエゴを捨てて生態系の摂理にしたがって生きる点に特徴があった。共生的な社会・環境を維持するために自利を捨てることはまさに、自己否定であり、その実践は欲望の断念や不快や痛みが伴うことが少なくないが、それをそのままに受け入れるということだ。その不断の継続こそ人間の倫理的行為なのである。宗教文化や臨床文化に通底する自己否定のモメントが環境文化にも読み取れる。

 最後に大衆文化である。結論から先に言えば、可能性としてはゼロではないが、大衆文化には原理的に自己否定のモメントはない。それは前節でも指摘したように、ひとつは身体実践を伴わない鑑賞であるからであり、いまひとつは現世利益を前提とした現在の自己の「自己肯定」の世界だからである。つまり、大衆文化は他文化のスピリチュアリティを表出する二義的類型なのだ。もちろん表象文化や霊能祈祷師のセアンスの受容は、そこから臨床文化や環境文化、さらには宗教文化の重要性を認識する契機となるかもしれない。この可能性は否定できない。しかし少なくとも、大衆文化の受容というその当の場面においては自己否定の場面はないのである。これはひとえに大衆文化のスピリチュアリティが表現的スピリチュアリティだからであろう。

 したがって、現代のスピリチュアリティ文化に共通するスピリチュアリティは厳密に言えばないのだが、少なくとも主体的実践を伴った正当で一義的な文化類型である、臨床文化、宗教文化、および環境文化のスピリチュアリティには、自己否定という共通の自己超越意識過程が看取された。私は、この自己否定こそスピリチュアリティの本質を規定するものだとここで強く主張しておきたい。

 

二類型

 スピリチュアリティの本質を自己否定に見たが、より仔細に検討すると、同じ自己否定と言っても、宗教文化と、臨床文化・環境文化とではその構造と過程が大きく異なっている。私はその差異を、個人意識的スピリチュアリティと社会倫理的スピリチュアリティという二類型として区別している(21)。宗教文化、特に教団宗教の文化には、両類型があるが、ここでは本章で取り上げてきた瞑想行に特化して類型化の作業を行うことにする。

 まず、宗教文化は個人意識的スピリチュアリティである。第二節で見たように、瞑想はまず体から入って、固有の方法で座るなど特定の身体実践を行う。ある一定の期間反復して身体実践を行うと、魂の次元、そして霊の次元で意識変容が起こる。これが、瞑想の自己否定のモメントである。こうした自己超越意識獲得の過程が進むと、徳性のある人格化が進んだり、あるホリスティック(全体的な)世界観=智慧が発現したり、さらにはそれが社会的行為として表出されたり(社会化)するなど、現象的実現が起こってくる。これの過程を図示したものが図2である(22)。座標軸の第一象限の身体性から、第二象限の意識の超越性、そして第三象限の世界観の全体性、さらに第四象限の社会・環境の関係性へと進む過程である。

 次に、二つ目の類型は、臨床文化と環境文化の社会倫理的スピリチュアリティである。体から入るところは同じだが、ここでは個人的な身体実践を行うことによって自己否定を実現するのではなく、むしろ他者や環境と交わるところから出発する。そうしたコミュニケーションを通して、これまでの実利的な自己や自己統制できない自己、あるいは自分の死や生を受け入れらない自己のあり方を否定して、利他的で節制的、あるいは受容的な新しい自己に生まれ変わる。このモメントが従来の自己を超出する自己否定のモメントである。こうした自己変革はときに、ある固有なホリスティックな世界観を形成することにつながる。この過程を図示したものが図3である。個人意識的スピリチュアリティとは異なって、N字型の軌跡を座標上に描く。第一象限の身体性から、第四象限の社会的関係性、そしてそこでの交わりから、第二象限の自己否定という超越性へ移行し、最後に第三象限の全体的な世界観へと進む過程である。

 この個人意識的スピリチュアリティと社会倫理的スピリチュアリティは、スピリチュアリティ、そして狭義の宗教の実践の二本柱である。瞑想と奉仕、あるいは反復と臨床と言い換えることもできるだろう。

 

定義

 さて次に以上の本質論と類型論をふまえながら、最後に「スピリチュアリティ」を宗教学的に定義してみよう。

 ただしその前に本書の執筆者のうち五人の定義を検討し、自己超越意識の自己否定性を中心として構築しうるスピリチュアリティ定義に必要なアスペクトをまず摘出する。

 本書第III部第5章で「ポピュラー文化の中のスピリチュアリティ」を担当している、自己啓発セミナーなどのセラピー文化を主たる研究対象とする宗教社会学者の小池靖は、「超自然的な力や存在に自己がつながっている感覚」(23)と、超越性とそれとの関係性と受動性に着目して簡潔に定義している。

 また、第II部第4章「現代ヨーガとスピリチュアリティ」を担当した、和尚ラジニーシ運動を研究し、ヨーガを研究・実践している宗教社会学者の伊藤雅之は、「おもに個々人の体験に焦点をおき、当事者が何らかの手の届かない不可知、不可視の存在(たとえば大自然、宇宙、内なる神/自己意識、特別な人間など)と神秘的なつながりを得て、非日常的な体験をしたり、自己が高められるという感覚をもったりすること」(24)と、「スピリチュアリティ」を定義している。

 いずれも、超越性、関係性、当事者性を参照点としながら、固有の体験における当事者=自己の感じるある固有の感覚によって、自分が変容するという点を重視した定義となっているのが特徴である。

 同第3章「瞑想の諸伝統を俯瞰する」を担当し、アルコホーリクス・アノニマスという、断酒を目的とするセルフヘルプ・グループを研究した宗教学者の葛西賢太は、「何らかの超越的存在を遠方に・抽象的に・曖昧に想定しつつも、直接そのような存在の臨在・顕現を認識するというよりは、むしろその力が遠隔操作的にきわめて人間的な領域に及ぶとみてとる感覚」(25)と、「スピリチュアリティ」を定義し、超越的次元の当事者への影響力の独特な様式について留意している。

 それに対して、第IV部第8章「スピリチュアリティの心理学」を担当した、トランスパーソナル心理学者の中村雅彦は、「生の意味と目的、霊性の自覚、命の永続性、自然との一体感、無償の愛」(26)と、「スピリチュアリティ」を定義している。生の実存的な世界観や、「無償の愛」という自己放棄に見られる受動的な態度と、「スピリチュアリティ」は深く関わっている。大いなる存在や命との「つながり」を感じて、自己変容するためには、この謙虚で受動的な態度、すなわち自己否定が確立していなければならない、ということである。

 最後に、第I部第2章「スピリチュアリティと覚醒の教育」を担当した、ホリスティック人間教育学の中川吉晴は、スピリチュアリティの次元を魂(ソウル)とスピリットに分けた上で、魂を「個人の内奥部分であると同時にスピリットへとつながるところ」(27)、「それをとおして人間の生きがいや存在意味が開示されてくる次元」(28)、スピリットを「人間と世界の無限な深み」(29)、「人間の究極的な根源」(30)、「世界の不思議さや無限性」(31)としている。実存的なホリスティックな(全体的な)世界観と、無限への開かれとしての存在の究極的なあり方が共に重視されている。

 以上の五つの定義をまとめて考察してみると、絶対的存在が人間の内奥に働きかける内面性が比較的強調されており、意識の魂の次元における実存性と、霊の次元における絶対的存在とのつながりという二点から自己超越性というアスペクトが指摘できる。また、体験の重視という点からはおぼろげながら身体実践性というアスペクトが、また生の実存的でホリスティックな世界観という点からは、そのものずばりホリスティックな世界観(分有される意味世界)というアスペクトが摘出できるだろう。最後に―これは中村しか指摘してないが―、無償の愛に読み取られる共生的で利他的な社会(環境)という関係性のアスペクトを認めることができる(図4参照)。

 この四つのアスペクトを考慮しながら、私なりに「スピリチュアリティ」を改めて定義すると(32)、次のようになる。

 スピリチュアリティとは、固有の身体実践や社会的行為によって形成される自己超越意識(通常意識を超えた魂・霊的次元の諸意識段階で、自己が否定され、絶対的存在となんらかの形で一致した場所的個としての意識)であり、その意識に対応した、生死の意味(生きがい)やホリスティックな世界観、共生的社会(環境)として段階アスペクト的に体験・表出されるものである。

 

(1)元々、スピリチュアリティ(spirituality, spiritualité)という語は、ラテン語の名詞spiritualitasであり、「霊の」という意味の形容詞spiritualisの派生語であり、新約聖書のパウロ書簡に出てくる。つまり、ギリシア語の名詞pneuma(霊、spirit)と形容詞pneumatikos(霊の)に由来する。さらに、このspiritは、ヘブライ語のルアッハに由来しており、これは「霊」だけでなく「息や風にまで広がる意味領域」を包括し、「信じる者の命を活気づけるもの、始まったばかりのことをさらに深めかつ完成させるよう促すもの」である。キリスト教霊性研究の第一人者で神学者のシェルドレイクによると、スピリチュアリティという語は中世では「聖職者」を意味し、霊的生活との関連でネガティブではあれ用いられたのは十七世紀フランスが初めてであったという。スピリチュアリティが、キリスト教生活に関わるポジティブな意味で使用されるようになったのは二十世紀に入ってから、特に六〇年代前半の第二バチカン公会議以降のことであり、七〇年代に入ってから支配的な用語として使われるようになった。それがキリスト教内の語用法から転用されて一般に使用されることになったという。この点についてはシェルドレイク、フィリップ『キリスト教の霊性の歴史』木寺廉太訳、教文館、二〇一〇年、一八〜一九頁、マクグラス、アリスター『キリスト教の霊性』稲垣久和他訳、教文館、一七〜一八頁、二〇〇六年、および島薗進『スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺』岩波書店、二〇〇七年、第三章を参照。

(2)島薗進は、後の「精神世界」と呼ばれるようになる霊性追求の広まりを、一九七〇年前後と明確に示している。島薗同書、八頁。なお、スピリチュアリティ文化の社会文化的背景に関する詳しい記述は、樫尾直樹『スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性』春秋社、二〇一〇年の第一章および第三章を参照。

(3)こうした安易な考えの背後には、我が国の学校教育や家庭教育できちんとした価値教育が十分に行なわれていないという社会文化的な背景がある。毎朝、テレビ各局で星占いや血液型占いを放映しているのは、日本くらいであるが、人々は、ゆらめく心情を占いや電化製品を買うことや音楽を聴くことでごまかしているのが実情である。

(4)私はこれまで「臨床文化」ではなく「セラピー文化」と類型化してきた(樫尾直樹『スピリチュアル・ライフのすすめ』文藝春秋、二〇一〇年、第三章)。しかし、それではスピリチュアル教育や覚醒の教育といった教育場面の交感を厳密に分類できないことに気がついたので、本稿では「臨床文化」と改めた。

(5)樫尾前掲書、第五章参照。

(6)『心のノート』に関して、弓山達也「いのちの教育と宗教教育」、カール・ベッカー、弓山達也編『いのち 教育 スピリチュアリティ』、大正大学出版会、二〇〇九年、二三五〜二四五頁参照。また、ホリスティック教育の可能性に関しては、中川吉晴『ホリスティック臨床教育学―教育・心理療法・スピリチュアリティ』せせらぎ出版、二〇〇五年を、臨床文化における「問い」の重要性については、林貴啓 『問いとしてのスピリチュアリティ―「宗教なき時代」に生死を語る』京都大学学術出版会、二〇一一年を参照。

(7)本書では、第三章「瞑想の諸伝統を俯瞰する」において、瞑想とスピリチュアリティとの関わりについて詳論されている。

(8)1.単純化、2.現前化、3.倫理化、4.表出化という瞑想の四類型は、各瞑想が実践として一義的にまず何をしようとするのかという点から分類されている。つまり、1.単純化は、意識のあり方を単純化する、2.現前化は、特定のイメージを心の中に現前化させる、3.倫理化は、利他的な自己イメージを形成する、最後に4.表出化は、自己の身体や道具を用いて表現することをその一義的実践として行うのである。各類型の四つの実践素は以下の通りである。1.坐禅などの眺瞰、読経などの集中、呼吸などの観察、気の操作、2.現前化させるものとして、文字、図像、仏などのペルソナ、固有名、3.自己の願望の自覚、利他的な自己イメージの醸成、具体的な利他的行為の想像、偉大な宗教者の人生の追体験、4.舞踏、歌唱、造形、演奏、である。じっさいの多くの瞑想的宗教実践は以上のような実践素や類型を複合させた瞑想複合として理解する必要がある。以上の瞑想の一般類型については、祈りや狭義の行との関係性も加味して、別稿で論ずる。

(9)島薗前掲書、一二〜一五頁参照。

(10)福岡正信『自然農法―わら一本の革命』春秋社、二〇〇四年参照。

(11)「パワースポット」の語のメディアへの登場とその後の展開と社会文化的位置づけについては、樫尾直樹「パワースポットとは何か―その真相に迫る」、『三田評論』一一四四号、慶應義塾、六八〜七一頁参照。

(12)インテグラル理論および「スペクトル」の概念と発想は、ケン・ウィルバーのそれを参照した。ウィルバー、ケン『意識のスペクトル』(1)(2)、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、一九八五年、および『進化の構造』I、II、松永太郎訳、春秋社、一九九八年。

(13)たとえば、ペレニアリズム(伝統主義)における永遠の哲学の考え方がそれである。この思想によれば、偉大なる宗教伝統は、自己性と世界が同じような階層性をもつとする点で一致している。ルネ・ゲノン、フリッチョフ・シュオン、ヒューストン・スミスらがその典型的思想である。スミス、ヒューストン『忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン』、菅原浩訳、アルテ参照。

(14)井筒俊彦『意識と本質―精神的東洋を索めて』岩波書店、一九九一年、二一四〜二一五頁参照。

(15)中川前掲書、二二頁。

(16)もちろん意識は実体的にこのように階層化されているわけではなく、これらの階層は常に折り畳まれたひとつの意識である。この意味で各階層は段階ではなく部分的にアスペクトであると言える。しかしより深層に行かねばすべての意識アスペクトを同時に体現することはできないので、この点からすると、厳密には段階的アスペクトと言ったほうがより適切かもしれない。しかし、いずれにしても、このように意識階層論的に説明するのは、便宜上より理解しやすくするためであることをあらかじめ断っておきたい。

(17)アルコホーリクス・アノニマスのスピリチュアリティに関しては、葛西賢太『断酒が作り出す共同性―アルコール依存症からの回復を信じる人々』世界思想社、二〇〇七年参照。

(18)樫尾前掲書、第二章6参照。

(19)本山博「場所的個としての覚者」『本山博著作集第七巻 修行者から覚者へ』宗教心理出版、二〇〇九年、二八〜三一頁。また、本山は、神霊との一致という神秘体験に関して、西田幾多郎の場所概念を援用して「場所的自己」論によって説明している。本山によれば、人間は神霊とただ合一してひとつになるのではなく、自己と神霊を含み込んだ「場所」の意識、すなわち「場所的個」になるという。この点はきわめて興味深いが、別の機会に検討せざるをえない。

(20)本章におけるスピリチュアリティ理解は、この鈴木大拙のそれを基礎としている。鈴木大拙『日本的霊性』岩波書店、一九七二年(=一九四四年)参照。

(21)樫尾前掲書においては、スピリチュアリティの類型として、文化価値的スピリチュアリティを加えた三類型としていた。前掲書においても注記してあるが、文化価値的スピリチュアリティは二義的なものなので、本稿ではこの点を明確にするために二類型とした。

(22)樫尾同書においては、図2(および図3)の第三象限を「実存性」、第四象限を「利他性」としていたが、棚次正和の私信における批判と林貴啓前掲書、七三頁の指摘を契機として再考した結果、図4で示したように「実存性」は第二象限の「超越性」の魂の次元に相当するという理由から、(世界観の)「全体性」に、「利他性」は理想的規範的な関係性であるという理由から、より一般的な「関係性」に変更することにした。「実存性」とは、現象的にはまず個人的次元において把握されるべきであったが、私は、共同(間)主観的に形成される生の実存的意味/価値の意味合いで、共同性に力点を置きながら規範的に使用したのである。

(23)小池靖「商品としての自己啓発セミナー」河合隼雄・上野千鶴子編『現代日本文化論8 欲望と消費』岩波書店、一九九七年、一四四頁。

(24)伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ』渓水社、二〇〇三年、ii頁。

(25)葛西賢太「セルフヘルプのスピリチュアリティ」田邉信太郎・島薗進編『つながりの中の癒し』専修大学出版局、二〇〇二年、八五頁。

(26)中村雅彦「スピリチュアリティの心理学的研究の意義」安藤治・湯浅泰雄編『スピリチュアリティの心理学―心の時代の学問を求めて』、せせらぎ出版、二〇〇七年、九七〜九九頁。

(27)中川前掲書、一九頁。

(28)同書、二二頁。

(29)同書、一九頁。

(30)同書、二二頁。

(31)同書、四一頁。

(32)以前の定義は、樫尾前掲書、四一〜四二頁参照。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

article 2: 瞑想と臨床―不二の道としてのスピリチュアリティー 樫尾直樹

 (樫尾直樹・本山一博編『地球社会の新しいヴィジョンー心身・霊性・社会』国書刊行会、2015年、pp.27-67.所収) 

                                 

 

1. スピリチュアリティの現代性

 

世界の幻視

「ニューエイジ」(1)「アクエリアン革命」(2)「精神文明」「霊主文明」(3)・・・・・・。

 二十一世紀というこの新しい世紀の始まりと転換を、人は希望と期待、あるいはある確信を込めて、そのようにいろいろな言葉で表現してきた。

 本書の題目の文言である「地球社会」も、そんな近未来的世界像を託した語彙群の中に属している。人と人、人と自然、人と森羅万象との絆が、目には見えないけれど、ある固有の現実性と独特の生々しさをもって感じられる、このグローバルな(地球規模の)世界に対する全体論的な共同的意識。これこそが、一連の新しく、かつ根源・始原的な「世界」のヴィジョン(幻視)をその中心において支持している、まさに「宇宙軸」ではないのか。

 こうしたある種の超越的次元を想定した神話的幻視を常に見、語り、表現してきた実践は、人類史において「宗教」と呼ばれもしてきた。しかし、「宗教」が近代において、経済や社会や政治といった諸近代領域と並列され、かつその周縁に押しやられてしまい、ひとつの近代的領域として位置づけられるようになってからは、「宗教」がそれまで担保してきた、上述したような神話的幻視としての共同的意識―それは神と人間との垂直的関係性と人と人その他との水平的関係性に分類できるが―は、「宗教」の中だけで滞留するのではなく、むしろ「宗教」という古い革袋の外へと横溢し続けている。

 

スピリチュアリティの探究

 現代において、それは普遍的な意味を付与されて、「スピリチュアリティ(霊性)」と呼ばれている。「スピリチュアリティ」は、宗教はもちろんのこと、スピリチュアルケアという医療、自助団体、いのちの教育、エコロジー、四国遍路に代表される巡礼、経営理念、宮崎アニメなどの大衆表象文化といった、じつにさまざまな社会文化的場面において観察され、「スピリチュアリティ文化」(4)と呼ばれる現代の新しい文化潮流を形成しており、「地球上のいのちのつながり」(5)「生死の実存的意味」「神仏、霊といった超越的存在者や見えない力の働きの感覚」という基本的釈義で、それに関心をもつ人々の間で一般的に理解されている。

 本章では、以上のような基本的認識に基づいて、人類(文化)の根本的価値であるとみなされる「スピリチュアリティ」とは何かについて、主としてその本質的特徴である「実践」論的視座から明らかにすることを目的としている。「スピリチュアリティ」の実践的事例としては、特にその代表・典型と考えられる「瞑想」と「臨床」を扱い、両者と両者の関係性を説明することを通して、「スピリチュアリティ」の核心を指示したい。

 

 

2. 「スピリチュアリティ」術語の定義―意識変容と実践の二類型

 

スピリチュアリティの語源と来歴

「スピリチュアリティ(spirituality)」の語源は、ラテン語の形容詞、spiritualitasであり、ギリシア語のπνεῦμα(プネウマ)や、ヘブライ語のרוּחַ(ルーアッハ)と同じく、神の霊に逆らうものすべてとしての「肉」に対立するという意味での「霊」を意味しており(6)、サンスクリットのओ३म्(オーム)やप्राण(プラーナ)のように「生命の息吹き」および「息/風」「精気/気息」を含意するものである。

 したがって「スピリチュアリティ」は、その意味の源泉においては、神という超越的存在者の特性に関連していたのであり、狭義の宗教的文脈から脱出してより普遍的な文脈の中で「生死の実存的意味」「宗教の本質」「不可視の絆」といった現代的意味を付与されて使用されていたわけではなかったのである。

 元来、上記の意味でとりわけキリスト教の用語として使用されてきた「スピリチュアリティ」ではあったが、二十世紀に入ってから、特に六十年代前半にエキュメニカルな関心から開催された第二バチカン公会議以降、少しずつ普遍的な意味を持たされるようになり、他宗教の宗教伝統とその核心を指示する言葉として採用されることになる(7)とともに、最終的には本章の冒頭で示したように、狭義の宗教である教団宗教によらない新しい宗教性の形式をも意味するようになり、現在では後者の語用のほうがより一般的になっていると言っても過言ではない(8)。

 現代的術語としての「スピリチュアリティ」は、以上のような来歴を持つ。

 

スピリチュアリティの固有性

 そうした「スピリチュアリティ」は、現在、宗教、生の哲学から、統合医療、いのちの教育、習俗、経営理念を軸においた会社経営、そして大衆文化に至るまで、きわめて広い社会文化的領域を横断的に覆っているため、現象的にはそこに共通する点を指摘しにくいように見えるが、「スピリチュアリティ」が発現する諸実践とその過程で変容生成する人間の多次元的意識に中心的に着目することによって、実存的意味や文化、社会との関係性にも十分に目配りすることを忘れずに、多様な「スピリチュアリティ」を一貫したひとつの視座=ポジショナリティから統一的に理解できる、と筆者は考える。

「スピリチュアリティ」の固有性はまず、その意識性と実践性にある。

「スピリチュアリティ」は、そのあらゆる現象的側面において必ず通常意識が破れるという事態を伴っている。

 たとえば、「スピリチュアリティ」の文化的源泉、その本家本元であるみなされる宗教を例に挙げてみれば、祈りや瞑想やその他の行、儀礼といった固有の身体実践を行なうと、五感と通常的覚醒状態が破れて、生死の実存的意味が自己の前にありありと浮上してくる。さらには、そうした価値的次元を超えて、神霊などの霊的存在が跳梁していることを感じられるような意識状態になる。そしてさらに、シャーマニック・トランスのような脱自体験や、禅やヴィパッサナー瞑想の空の体験、チベットのゾクチェンの自己解脱の体験を通して心の本性を自覚するという事態(9)、諸宗教のあらゆる神秘主義に共通する神仏との不二(合一)体験など、スピリチュアリティにはマインドから魂、魂からスピリットへという意識変容のスペクトル(10)があり、それを自己超越意識の変容過程として理解することができる。

 このように、個人を超越した存在(者)や力、価値や理念の諸相に自己を照応させる諸身体実践を通して、自己の現在の意識状態を否定(超越)することによって、さらにより高い(深い)意識状態の段階へと移行し入り込んでいく(11)。スピリチュアリティとはまさにこうした実践的場面において醸成され生成するのである。

 上述したような「スピリチュアリティ」に関わる社会文化的諸領域とそこにおける「スピリチュアリティ」現象は、こうした心・魂・スピリットという普遍的自己性(12)によって階層論的に定位される意識論的グラデーションの中のどこかに位置づけることができる。

 以上のように、「スピリチュアリティ」は、ある自己の現在の意識状態を超出していく超越的な感覚や意識(の質)として、まずはその本質をおさえておくことができる。

 しかし、それは文化、思想、社会制度のまさに単なる精神として示されるものではないし、その内容を―いままさに筆者が本章を記述しながらそうしているように―言語として表出、定着させることはかろうじてできるものの、あらかじめ観念として諸領域=象限の中に埋め込まれているわけではけっしてない。

 そうではなくて、「スピリチュアリティ」は、たとえば宗教であれば、祈りや瞑想やその他の行や儀礼といった諸身体実践なしで、絶対に「いまここに」現出するわけはないのである。スピリチュアルケアならばクライアントとスピリチュアルケアワーカーとの傾聴、対話という実践の場面で、ディープ・エコロジーならば田畑を耕し、いのちにかしづき、作物が生育し、その魂が展開していく実践の場面で、巡礼ならば道を歩き、祠を拝む実践の場面で、経営ならば経営理念が共有されじっさいの商談の中でその精神が伝達される実践の場面で、宮崎アニメならば映画を鑑賞する実践の場面でしか、「スピリチュアリティ」は生まれないのだ。この意味において、「スピリチュアリティ」を実践論的に理解し記述するという試みには、宗教学において認識論的かつ存在論的な正当性がある、と筆者は考えている(13)。

 

スピリチュアリティの二類型

 ただし、実践としての「スピリチュアリティ」は、上記のようにじつに多様なので、よりよく理解するために、二つの類型化を導入する必要がある(14)。

 それは、個人意識性(「個人性」)と社会倫理性(「社会性」)の二類型(15)である。前者、「スピリチュアリティ」が発現する個人意識的なアプローチとは、瞑想や行や祈り、あるいは武道や芸道のように固有の型の中に身体運動を落とし込んで行くような様々な身体実践である。それに対して、後者、社会倫理的なアプローチは、スピリチュアルケアやエコロジーのように、見かけ上自己の外部にあるとされる他者や環境へと自己を開いて行くような形で展開される、ある種のコミュニケーション的な実践であり、それは集団で行なわれる儀礼や他者への奉仕の場面にも観察されうるものである。

 ここでは、前者、「スピリチュアリティ」の個人意識性の典型を「瞑想」、後者、社会倫理性の典型を「臨床」(16)として、それぞれ統括的、象徴的に理解しておきたい(図1参照)。

 

 

 

スピリチュアリティの定義

 さて、「スピリチュアリティ」という術語と諸現象をめぐる以上の考察をふまえて、「スピリチュアリティ」の定義をしておきたい。すなわち、

 

「スピリチュアリティとは、固有の身体実践や社会的行為によって形成される自己超越意識(通常意識を超えた魂・霊的次元の諸意識段階で、自己が否定され、絶対的存在となんらかの形で一致した場所的個としての意識)であり、その意識に対応した、生死の意味(生きがい)やホリスティックな世界観、共生的社会(環境)として段階アスペクト的に体験・表出されるものである。」(17)

 

 この定義を座標軸上に図示すると、図1のようになる(18)。

 

 

 

 

3. 瞑想―スピリチュアリティの二つの道I

 

 それでは、スピリチュアリティという術語に関する以上の理解をふまえて、スピリチュアリティを発現する二つの道―「瞑想」と「臨床」―について少し詳しく見て行こう。

 

瞑想の定義

 まずは「瞑想」から。

 マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)、坐禅、阿字観、マンダラ観想法、ヨーガ、アティヨーガ、内丹法、太極法、霊操、動的瞑想、念仏や題目などの聖句反復・・・・・・。

「瞑想」はじっさいきわめて多様であり、このようにいろいろな種類がある。「瞑想」は宗教で考案、開発されてきたので、宗教の数ほど「瞑想」はあると言っても過言ではない。

 とはいうものの、それは、諸「瞑想」を類型化することができないということや、諸「瞑想」に共通した原理、構造=メカニズムがないということを意味するわけではない。それらの点に関心を向けながら、筆者は、「瞑想」を以下のように定義して理解している。

 

「瞑想とは、深くゆっくりとした呼吸と特定の坐法および意識の集中/留意を初期的基本的技法とし、心の働きの活用(単純化/活性化)、あるいは身体を媒介としたエネルギー操作という固有の諸身心技術によって、日常的身心状態を停止させ、心の系(意識の単純化→中心化→新しいより深い意識への脱構築)と、からだの系(エネルギー蓄積→循環・上昇→脱体)という、複数の意識階梯を経る身心一体の超出変容過程を螺旋的に反復しながら、定力強化/智慧発現と現象的実現(人格化・社会化)を共時的に伴って、最終的に自己が全一性(原理、一者等)と不二(非二元的合一)であるという状態に留まろうとする、身心実践複合である。」(19)

 

瞑想の到達点と階梯

 道元によれば、瞑想とはいわば「自己がすでに世界と親しい状態にあるということを了解すること」(20)である。仏教的には、そうした状態のひとつの究極的事態は「三昧(サマーディ)」と呼ばれている。

 あなたと私は、肉体的には分離された存在であり、その意味で可視的にはけっしてひとつであるわけではないが、ビッグバン以降、生成、展開してきたひとつの宇宙の現状における人類的次元での現れという観点からすれば、あなたと私は同じ宇宙の人類的展開としてひとつの存在であると言えるし、知的レベルに限ったとしてもそう実感できるだろう。そして、そうした理解は、私たちの体験というレベルではすでになく、自明の事実として本来意識されることもないことである。

「世界と親しくなること」とはまさにそうした事態であるが、瞑想は、そのように、いまある自己の意識と存在の在り方が否定され、自己が全体性―それは「宇宙」「大自然」、あるいは「神」「仏」「真如」とさまざまに呼ばれもするが―と不二の状態であるように在ることを目指している。「不二」を「合一」とポジティブに解釈しても知的レベルにおいてはよいのだが、「ひとつになる」と言ったとき、そこには私たちの使用する言語の本性として「ひとつではないもの」という観念=存在を生み出すので、さしあたり「二つではない」というネガティブな表現をするのがより適切である。ウィルバーは同じ理由から、「不二」を、同様にネガティブな表現で「非二元的合一」と呼んでいる(21)。

「意識のゼロポイント」(22)とも言われる瞑想が終極的に標榜する地点では、自己はすでに全一性そのものであるので、自己の存在や意識についての外在的な実感や意識という意味での体験はない。だから「ゼロ」なのだ。ひとつでもないし、ひとつでないものでもない。

 ただし、このゼロポイントにある以前には、自己性は、通常身心の例外的状態として、穏やかなリラックスした状態、生きがいという実存的な深い意識状態、夢=イマージュの体験、神霊の体験、自我意識=身体感覚の脱落、自他の区別の脱落とある種の一体感、それゆえの深い慈悲と憐憫の感情の流出、身体性が消滅した純粋な霊的状態への移入といった、当該段階にある自己が脱自する、一連の意識と存在(身体)のいくつかの階梯がある。瞑想はそうした階梯をゆっくりと移動していくための乗り物である。

 

瞑想の技法と技術

 では、じっさい瞑想でそのような身心的諸階梯をどのような技法・技術によって実現していくのだろうか。

 一番基本的な技法は、呼吸法、坐法、観想法の三位一体である。この「三位」は、私たち人間の存在の一般的土台である、身体(からだ)と意識(心)、そしてその両者をひとつのものとして結びつけている呼吸、すなわちエネルギーの三つのアスペクトにそれぞれ対応している。密教で言うところの、身・口・意の三密であり、それぞれ坐法、呼吸法、観想法に対応している。

 呼吸はエネルギーの出入の最も重要な技法であり、呼吸できない(しない)と死んでしまうことから、私たちが生きている事態そのものである。ゆっくりとした深い呼吸をすると、意識と身体の両方のレベルに大きな効果がある。意識は穏やかでリラックスした状態になっていく。そして、深い呼吸による心の平穏さはとりもなおさず同時に、私たち人間存在の本来の中心である臍下の「丹田」(23)に、身心の中心を定めてそこに留まるという事態を喚起する。つまり、呼吸によって気のエネルギーを身体に通せば、身心がすっきりとするのである。深い呼吸、心の平穏、丹田の中心化とはその意味で、身心の内部で生起する同じひとつの事態の三つのアスペクトである。

 これと同じことは、坐法においても言える。キリスト教の瞑想では坐法にこだわらないが、ほとんどの瞑想は、身体の体位の定め方に重きを置いている。たとえば、結跏趺坐や半跏趺坐、あるいは静坐、簡易坐法も含めたヨーガ坐法といったたいへんポピュラーな坐法はお尻と両膝の三点で体全体を支えるが、体の力を抜いて背筋をピンと伸ばすと自然に下丹田に重心がきて力が入るような仕組みになっている。下丹田に重心が定まるとそこにエネルギーが集まっていこうとするので、呼吸はゆっくりとした深いものになっていくと同時に、その過程で心も穏やかになってくるのである。このように、坐法の場合でも、呼吸法の場合と同じ三位一体が成立する。

 最後に観想法である。マインドフルネス・ヴィパッサナー瞑想(24)や坐禅、あるいは阿字観(25)に典型的に代表される密教瞑想などのような、意識(心)にまず着目して修される瞑想(「心の系」)でも、クンダリニーヨーガ(26)や内丹法(27)、動的瞑想の一種であるダイナミック瞑想(28)のように、プラーナや気と呼ばれる不可視のエネルギーを身体内部で循環、移動させる瞑想(「からだの系」)でも、その最も基本的な実践技術は、呼吸を観察したり、前下方を漠然と眺めたり、サンスクリットの阿字を凝視し強くイメージ化したり、あるいは、プラーナや気を蓄積したり操作したり、両手を肩より上に上げて両踵でジャンプしたりするという、技術内容は異なってもそれぞれ固有のきわめてシンプルな行為に留意・集中するという基本的技法は同じである。

 シンプルな行為に留意・集中すると、その他の通常意識と五感の働きは徐々に低下し、停止していく。すると、ふだんの生活において常に意識が自己の外部の諸対象に向かって滑り出し、それに関心を振り向けときに巻き込まれている状態、いわば気散じの状態が止み、自己がいまここにあるという内的状態=内在性に自己の意識が留まるようになる。自己の内部として意識が留意するのは、呼吸、身体(の運動)全体、感情、心、エネルギーと、瞑想の進捗状況や行態・技術によって異なるが、いずれにしても自分の中でゆったりと滞留して、自己のあるがままを眺めている=目撃しているという状態の中に自己は置かれている。そのため、どんな瞑想を行なっても、気散じがなくなるから、自己の外部との間に緊張関係が生まれないので、心は非常に穏やかでリラックスした状態でいることができるのである。

「心の系」と「からだの系」の二つの瞑想類型の違いは、心の働きを単純化させるかイメージ化作用を活性化させるかの差異はあれ、いずれにしても心の働きを活用させるという「心の系」から入るか、身体を媒介(場)としたエネルギー操作という「からだの系」から入るかであって、どちらの系から入っても、深いゆっくりとした呼吸を媒介にして、身心両系が同じコインの裏表として、心身相関的に作動するのである。つまり、大枠としては、瞑想の行態が異なっていても、「心の系」にまず着目する瞑想においても最終的には「からだの系」から入る瞑想と同じようなエネルギー移動が起こるし、逆に「からだの系」にまず着目する瞑想においても最終的には「心の系」での自己の中心の意識化から無心へという過程が同時に進行するのである。

 こうして、呼吸法、坐法、観想法という瞑想の三つの基本的技法/技術は、各技法のメタレベルにおいても「三位一体」として作用し、前述したような意識の諸階梯の螺旋を上昇しながら、心身相関上の相互的複合的全体的な効果をもたらすのである。

 

瞑想の果実

 ただし、ここで十分注意しなければならないのは、瞑想には、これまで説明してきたような瞑想内在的な地平だけがあるのではなく、別の能力的、および社会的な地平も同時にアスペクトとしてあることである。それはつまり、瞑想は、無心/不二といったいわゆる「悟り」という果実だけではなく、定力強化と智慧の発現、および人格化や社会化といった現象化のいま二つの局面が同時にあるのである。

 定力とは、瞑想によってもたらされる日常生活での不動心であり、これがより強くなる。智慧の発現とは、瞑想によって他者理解が促進されたり、未来予知ができたりするようになることである。自分のエゴにこだわらなくなっていくので、利他的になり、他者であっても我が事として応接することができるようになる。いわゆる「慈悲」がわき起こってくるのである。それによって「智慧」は飛躍的に増大、強化される。さらに、高い倫理性を獲得することができ、そのように社会において行動することができるようになる。これが瞑想の人格化と社会化という現象化という果実である(29)。

 以上、簡単ではあるが、スピリチュアリティを発現させるひとつの道としての瞑想について、その一般理論を展開することで説明した(30)。この一般理論を図示すると図3のようになる。

 

 

 

 このように見てくると、個人的には、瞑想こそスピリチュアリティの王道ではないかと考えざるをえない。それが仮に極論だとしても、やはり瞑想抜きではスピリチュアリティについて実践し考えることはできないことだけは確かではないだろうか。

 だが、瞑想と同時に、そして特にスピリチュアリティの社会的次元を明らかにするには、次節で扱う「臨床」もスピリチュアリティ発現のもうひとつのきわめて重要な道である。

 

 

4. 臨床―スピリチュアリティの二つの道II

 

臨床の意味

 2.で説明したように、ここでは「臨床」という術語は、医学・看護学で使用される意味よりも広く、対他的コミュニケーションの現場において、「自己を開いて、他者や社会・環境に向き合うこと」という意味で用いている。したがって、その意味での「臨床」は、「共生」や「利他」といった自己と他者との倫理的関係性/共同性の探求というアリーナへとまさに直接的に開かれている。

 本章で言及してきた、スピリチュアリティが発現する臨床的実践としては、スピリチュアルケア、自助団体、経営理念(共有)、いのちの教育、エコロジーなどがある。瞑想が基本的に個人的実践である(31)のに対して、臨床は医療や教育や職場といった複数の人間間の関係性/共同性とその構築過程、および人間と自然との関係性/共生性とその構築過程を前提としている。

 

臨床的実践の諸相

 紙幅の都合により、五つの実践のうち、前三者のスピリチュアルケア、自助団体、経営理念(共有)を事例として扱うことにしたい。

 まず、スピリチュアルケアにおいては、近い将来死に逝く運命の中に生きるクライアントとスピリチュアルケアワーカーとの間で構築されていく親密な関係性の中で、自分の人生や生き死に、残される家族への思いや苦しみ、悲しみ、生まれてきた意味など、クライアントの切迫した切実な実存と言葉を、ケアワーカーが傾聴し、ときに応え、ときに対話する。クライアントは、そうして自己と自己の在り方を徐々にケアワーカーに開いていくと同時に、ケアワーカーはそれをまるごと受け止め、ケアワーカー自身も自己の存在の開かれを生きることになる。

 だから、そうしたスピリチュアルケアの場面では、クライアントとケアワーカーそれぞれのさまざまな社会的属性や立場は脱落し、そこに共にあるという存在の前言語的な露呈そのものとして、いわば純粋差異(32)としての二つの存在のまばゆいばかりの交感が顕現する(33)。

 スピリチュアルケアの実践の記述から導出されるこのような交感は、アルコホーリクス・アノニマス(34)のような自助団体においても指摘することができる。

 断酒会のひとつであるアルコホーリクス・アノニマスでは、飲酒が引き起こすさまざまな問題に苦しんでいる人が匿名で参加し、飲酒にまつわる失敗談や断酒を継続できている成功談などをそれぞれが話し、その話を他のメンバーの参加者がただ聴くという、「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングを中心とした諸活動が行なわれている。そうやって断酒を今日一日と継続していくのである。「先行く仲間」の体験談をただ黙って傾聴すること、そして自らも自分の体験談を語ることによって、そのミーティングの場にはメンバーの間にある独特な共同性が形成される。

 その共同性でもっとも示差的に特徴的なのは、そこに「自分で理解した神」「ハイヤーパワー」があって、その「神」の「力」が、各メンバーの断酒継続という、この断酒会の唯一の目標を援助しているとされる点である。また、それに加えて、世界のさまざまな自助団体でそれぞれの目的に合った形にリバイスされて使用されている「十二ステップ」(35)―断酒を継続するために踏むべき「ステップ」―を指標としている点も重要である。

 ミーティングやその他の諸活動は、そうした場に対する認識と位置づけから、断酒継続という価値を実践する聖なる場所、まさに匿名の(アノニマスな)「神」の顕現する至高の空間となる。その社会的背景、根拠となっているのが、メンバー同士のミーティングで、自己を他者へと開示するだけで、批判や分析や解釈はもちろんこと、同意、賛同すらもけっして行なわないことによって開かれる、他者をそのまま受け入れ、その受け入れ=開かれの中にただ共に在るという、独特な共同性のあり方である。言葉の交換としての対話という通常の言語コミュニケーションの形態とは異なって、そうした一切の媒介を捨てて実現される、いわば存在の非媒介的な直接的な交感(コミュニカシオン)(36)である。

 スピリチュアルケアやアルコホーリクス・アノニマスでは、以上のように、他者の傾聴とそれを通した受け入れによって、自己と他者との間の境界を一旦切ったあとに、両者が境界の断面を微妙にずらしながらその断面でぴたっと触れ合っているというような非媒介的共同性として「共生」空間が形成されることが理解できるだろう。  これが、両実践に見る臨床におけるスピリチュアリティとその基本的醸成過程である。

 それらに対して、最後に企業における経営理念共有におけるスピリチュアリティ(37)について考えてみたい。

 パフォーマンスが高い会社の多くには、成文化された経営理念がある。経営者は、社員と社会の幸福のために、社会の公器である会社を発展させ、利益を上げようとするが、そのときにもっとも重要な要件のひとつが経営理念の策定と浸透である(38)。

 なぜ経営理念が重要なのだろうか。その機能・効果とは何か。

 たとえば、現代世界の経営の神様と言われる京セラ創業者の稲盛和夫(39)は、「京セラフィロソフィー」という経営理念を策定している。それは、「すばらしい人生をおくる」「より良い仕事をする」「リーダーとして大切なこと」「心を高める、経営を伸ばす」「新しいことを成し遂げる」という五つのカテゴリーに分けられた二十二か条で構成されている(40)。

「心を高める、経営を伸ばす」というカテゴリーの中の「世のため人のために尽くす」には、次のように書かれている。

 

「世のため人のために尽くす」ことが人間としての最高の行為です。人間は「自分だけよければいい」と利己的に考えがちです。しかし本来、人間は人を助け、他の人のために尽くすことに喜びを覚える、美しい心を誰もが持っています。利己的な思いが強すぎると、美しい心は表に出てこないのです。利己的な思いを抑え、「利他」の心をもって「世のため人のために」尽くさなければなりません(41)。

 

 ここには、「働く」「仕事をする」ということの根本的な目的意識が記されている。会社とそこで働く社員は、自分と会社の利益の最大化だけを目標として働くのではなく、最終的に仕事を通して社会貢献するという理念を実現するために働くことこそが最も大切な目標であると示されている。

 このように、経営理念とは、社員個人を超えた至高の価値である。経営理念を経営者はもちろんのこと、各社員が内面化し共有し(=経営理念を浸透させること)、それを営業や製造といった具体的な仕事の現場で生かし、生きることによって、社員は個人的および会社集団的な私利私欲を捨てて、社会に奉仕するという強い気持ちをもってその業務をまっとうすることができるようになる。「仕事はすべて人のためにするものである」というのは、ちょっと考えればわかることだが、なかなかそうしたところに思いを遣れない。だから至高の経営理念が必要になってくるのだ。

 この意味で、経営理念が会社のすべてのメンバーの間で共有されることを通して、各メンバーは、利己的自己を破り、社会へと開かれて、まさに利他的自己へと変容するのである。ここに経営理念共有のスピリチュアリティが看取できる。

 以上のような経営理念の共有や、先に見たスピリチュアルケアや自助団体は、共生か利他か、あるいは営利か非営利かという差異はあれ、いずれも臨床的実践の公共性という点で共通している。

 私たちの生きる現代世界には、貧困、経済格差、原発問題、マネーゲーム化する金融資本主義など、さまざまな社会問題が山積している。いずれも容易に解決できる問題ではないが、私事性ではなく公共性を探求することがもっとも重要であり、その公共性とは、以上で見てきたような臨床的な公共性としてのスピリチュアリティである。より良い社会を創造するためには、諸個人が社会空間での実践としての「仕事」を通して、臨床的な公共的スピリチュアリティを実現させるしかないと考えられる。そうした積み重ねの上にはじめて、臨床的スピリチュアリティを反映した制度化も果たされるにちがいない。

 以上をふまえて、本節で直接取り上げなかった臨床的実践―ボランティア、介護、CSR(企業の社会的責任)、年中行事も多少含めて、臨床の実践類型を、インフォーマル―フォーマル、パブリック―プライベートの座標軸で図示すると、図4のようになる。

 

 

 

臨床的実践の根底

 臨床実践としてのスピリチュアリティは、インフォーマル―フォーマル、パブリック―プライベートを問わず、あらゆる社会空間において発現させることができることがわかる。四つすべての臨床の実践類型の基礎にあるのは、利他的共生的な世界構築を目指す奉仕の意志、動機ではないだろうか。

 そしてさらに、他者に対する慈悲・憐憫的な共感とそれに基づく自己反省が、そうした臨床実践の動機の根底にある。学問的立場からすれば宗教的なもの言いになってしまうことを恐れずに言うと、その共感と自己反省とは「悔い改め」と表現できるだろう。臨床的実践の過程を通して、悔い改めは起こってくるが、その一方で、臨床的実践自体を自己存在の深いところから自然に促していくドライブとは、「自分と他者とはじつは不二である」ということを身心で実感しているということではないだろうか。

 最後に、スピリチュアリティが発現する実践としての、瞑想と臨床との関係性について考察してみよう。

 

 

5. 不二としての二つの道

 

瞑想と臨床という二分法

 ここまで、スピリチュアリティを、それが発現する実践に着目して瞑想と臨床の二つの類型に分類することによって、その本質的特徴を明らかにしてきた。

 すでに少しく言及したように、瞑想と臨床という二分法は、一.個人意識性と社会倫理性、二.個人性と社会性、三.垂直的共同性と水平的共同性という軸を指標として設定されている。瞑想と臨床との関係性について明らかするのを助けるために、いまここで、両者を分ける指標として、まずは自己の成長や向上を実現することを人生の優先的目標とすることと、他の人と交わり、そこで作り上げる絆(=和)を大切にして生きていくことを人生の優先的目標とすることという、生き方、人生の価値に関する明らかに対立するように見える二極を設けてみることにしよう(42)。

 この軸に照らしてみると、瞑想は、自己向上の欲望を初発の基礎とした自己志向的実践であるのに対して、臨床は、他者との共同性=他者への配慮と他者からの承認に対する欲望を初発の基礎とした他者志向的実践である、と理解される。

 とはいうものの、瞑想と臨床のそれぞれに深く分け入ってみると、案外とそうではないところもあり、両者はその根底において同じ地下水脈で結ばれていることに気づかされる。

 この最終節では、そのあたりの事柄について述べてみたい。

 

瞑想と臨床との共通点

 瞑想と臨床との差異についてはすでにあらまし述べてきたので、ここではまず両者の本質的な共通点を示す。

 両者の共通点―すなわちそれはとりもなおさずスピリチュアリティの実践論的特性、核心であるが―は、一言で言えば「自己否定」であり、いずれも究極的には「不二」(非二元的合一)という状態が現出する可能性がある点で共通している。「自己否定」とは、現在の自己の意識状態が破れて、それとは異なったより深い、より高次の意識状態となり、その過程に並行して身体としての存在状態も異なった次元に変化するということである。瞑想という実践はまさに現在の自己の意識状態が破れて続けていく過程である。

 瞑想は基本的にまずは個人の身心的営みであるがゆえに、社会的集合的営みである臨床に比較して、その構造過程はシンプルである。そのため、スピリチュアリティの実践論的特性を明らかにする際のモデルとなりやすい。

 瞑想をモデルとして、臨床を理解しようとすると、臨床にも同様に、「自己否定」の契機があることが見いだされる。それは、すでに見たように、自己を他者へと無前提に掛け値なしで開き、まるごとのあるがままの他者を受け入れたり、社会貢献という個人を超えた崇高な価値を共有したりすることを通して、利己的自己が利他的自己へと変容するという事態である。

 また、臨床における「不二」とは、上のような自己否定の契機によって、自己と他者との間に直接的な非媒介的共同性としての公共性が生成するという事態の謂いである。

 

瞑想と臨床の相補性

 瞑想と臨床には、以上のように自己否定と不二という、スピリチュアリティとしての本質的な共通点があることが明らかになった。

 むろん両者は同じ実践ではない。その実践の方向性は、その入り方において逆である。しかし、スピリチュアリティという観点からすれば、両者は同じコインの裏表の関係にあり、その意味で両者にはある種の相補性がある。つまり、瞑想を実践することは、とりもなおさず臨床の実践に影響を与え、逆もまた真である。それと同時に、瞑想の実践の果ては臨床の領域に入り込み、臨床の実践には瞑想的効果がある。

 瞑想と臨床は、いわば相即相入の関係にあるのである。

 瞑想が準備する臨床的実践としては、瞑想の現象化としての人格化と社会化(利他的行為)、および慈悲の瞑想があるが、もっとも重要なのは、瞑想の目指しているところが、先に見たように、自他が不二であることを実感することであり、ここにこそ瞑想の社会的、臨床的次元が看取される。つまり瞑想は、最終的には個人的実践であることを止め、他者との共同性を構築するための礎となるのである(43)。

 それに対して、臨床の側から瞑想を見よう。

 まずは、臨床の瞑想的効果という点である。すでに見たように、臨床には、他者の生の声のただひたすら耳を傾ける傾聴や、他者をあるがままに受け入れること、あるいは当該集団での行動規範である諸理念の唱和といった実践がある。こうした諸実践はまさに、瞑想の基本技法である特定対象や特定行為への留意あるいは集中、および特定行為の反復による無心状態の形成と同じ効果がある。もっと言えば、それらは瞑想的行為、瞑想そのものである。

 また、臨床は瞑想に対する援助となる。

 瞑想は、自己否定を重視する。しかし、現在の自分の状態を捨てようと思って瞑想をした場合、逆にそんな自分に固執することになってしまう。それでは瞑想の目的にまったく反することになる。また、ある程度瞑想を続けていくと、自己肥大や自己膨満という事態が必ず起こってくる(44)。そんなとき臨床的実践を行なって、自己を他者へ開いていくことによって、そうした破滅的な状況から脱出することができる。いわば、臨床を行なうことによって瞑想とのバランスを取ることができる。この意味で、臨床が深まれば、同時に瞑想も深まるのである。

 以上からすれば、瞑想と臨床とは両者が互いを相補い合い、援助し合う実践である、と言える。

 

不二の道

 瞑想と臨床の共通点と相補性に鑑みれば、両者は同じスピリチュアリティ(実践)の二つの軸、二つのアスペクトであると結論づけることができるだろう。すなわち、瞑想と臨床とは、両者が目指している究極的地点と同様に「不二」なのである。

 ここから、個人的次元と社会的次元をバランスよく同時に生きることが肝要である、という学びを得ることができる。

 ただし、このバランスを取ることは、じっさいはたいへん難しい。たとえば、公共空間に対して社会貢献しようとする臨床的実践は、それがこのうえない価値を持つからといって、すべての人にどんなときでも勧められるものではない。なぜなら、他者に対するある一定の慈悲や憐憫の気持ちが醸成されていない人がそうした実践を行なっても、自分の内側から自ずと涌き起ってくるエネルギーで行なっているわけではないので、そうした尊い行為に疲弊してしまう。するとその人の心の底に最後に残るのは、やり場のない怒りや恨みである。ときにそうしたネガティブな感情は、臨床的実践を勧めた人に対して向けられることもあれば、教団のような自分が所属する集団の他集団に対する優越性や優位性を無根拠に主張するようになる場合もある(45)。

 人の心をコップに例えれば、次のように言えるだろう。

 つまり、自分のコップにほんのちょっとしか水がたまっていなければ、その水を他人にあげることはできない。そのちょっとの水を、利他の名の元に、全部他人にあげてしまえば、自分の水がなくなるから、自分が飲めなかったことに怒りを覚えるだろう。もちろん、もともとマザーテレサのようにきわめて利他的な人であれば、何の恨み事もなく、他人に水をあげて自己犠牲することができるだろうが、ふつうの人はそんなことはできない。

 だから、ふつうの人は、自分のコップに水がたくさん入って、溢れ出るくらいになったら、他人にその溢れ出る水をあげれば良いのである。そうすれば、自分の自然な気持ちから、他人に水をあげることができる。

 さて、ここで問題である。では、いったいどうしたら自分のコップを、水が溢れ出るくらいいっぱいにすることができるのだろうか。

 人類はこれまで、そのための方法をたくさん模索してきたが、本論考の帰結からすれば、それは瞑想をおいて他にない。私たちが無理のない社会貢献をするには、まず個人的実践である瞑想から入るのが良い。瞑想と臨床は不二である。しかし、同時にそれゆえに、ここに瞑想の若干の先行性を見て取ることができる。

 

 

(1)西洋占星術では、春分の日の見かけ上の太陽は、二千百六十年周期で、黄道十二宮を移動しているとされており、これから太陽は魚座から水瓶座(アクエリアス)に入り、従来の物質文明を超えた新しい時代(「ニューエイジ」)が到来する、という思想文化=運動のことである。

(2)マリリン・ファーガソンは、『アクエリアン革命』、堺屋太一監訳、松尾弌之訳、実業之日本社、一九八一年(Ferguson, Marilyn  1980 The Aquarian Conspiracy: Personal and Social Transformation in the 1980s, J. P. Tarcher Inc., Los Angeles.)において、「ニューエイジ」の時代に起こる、科学、政治、経済、仕事、医療、教育、共同性、スピリチュアリティ(宗教性)といったさまざまな領域における変革を「アクエリアン革命」(水瓶座の革命(原題は「たくらみ」))として捉えた。

(3)この語は、主として世界真光文明教団、崇教真光など、岡田光玉を教祖とする真光系の新宗教で使用されている。

(4)この語および「霊性文化」の詳細については、樫尾直樹『スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性』、春秋社、二〇一〇年を参照のこと。

(5)島薗進『精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動』、東京堂出版、一九九六年、三八七頁。

(6)アリスター・マクグラス『キリスト教の霊性』、稲垣久和他訳、教文館、二〇〇六年(McGrath, Alister E. 1999 Christian Spirituality: An Introduction, Blackwell, Oxford.)参照。

(7)フィリップ・シェルドレイク『キリスト教霊性の歴史』、木寺廉太訳、教文館、二〇一〇年(Sheldrake, Philip 2007 A Brief History of Spirituality, Blackwell, Oxford.)、一八―二一頁参照。また、それゆえ、たとえば「ヒンズー教のスピリチュアリティ」「仏教のスピリチュアリティ」「道教のスピリチュアリティ」という表現が可能になった。諸宗教のスピリチュアリティをテーマとしたシリーズ、World Spirituality, SCM Press, London.を参照。

(8)たとえばグレイス・デイヴィーは、‘Believing without Belonging’という表現で、宗教に所属しない現代的な信念のあり方を理解しようとしている。 Davie, Grace 1990 ‘Believing without Belonging: Is This the Future of Religion in Britain?’, Social Compass.1990; 37: 455-469.参照。

(9)チベット仏教の最高峰とされるゾクチェン(大いなる完成)については、ナムカイ・ノルブの一連の著作、特に、ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え―チベットが伝承した覚醒の道』、永沢哲訳、地湧社(Namkhai Norbu 1986 Dzog-chen : Lo stato di autoperfezione, Ubaldini Editore, Roma.)を参照。

(10)ケン・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の進化』、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、一九八五年、および『意識のスペクトル[2]意識の深化』、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、一九八五年(Wilber, Ken 1977 The Spectrum of Consciousness,

The Theosophical Publishing House, Wheaton.)参照。

(11)このような自己超越意識の変容過程として宗教体験を捉えたり、それを軸にして宗教現象を考察したりする方法的態度は、従来の宗教学の認識論的前提の矛盾を克服する新たな認識論的前提を提起するものである。従来の宗教学では、超越性という状況原則と越境という行動原則が前提とされてきた。つまり宗教は、神仏や他界といった超越的な存在者や空間の存在、ないしは実在をあらかじめ前提として設定している。これは、他の領域と異なる宗教の決定的示差的な特徴である。いわば聖俗理論で言われるように、俗と分離され禁止された超越的な聖があるというのである。それに対して、宗教実践者は、その超越的領域へと、その境界線を侵犯、越境しようと試みることができ、その行為は、教祖(主)といった指導者や職能者には可能であるとされる。しかし、ここには論理的矛盾がある。なぜなら、超越的領域は越境できないからこそ超越的なのだから(これはとりもなおさずジョルジュ・バタイユのエロティシズム論批判である)。宗教に対するこうした矛盾的理解は、指導者や職能者の一般信者やさらには研究者に対する権力論的優越性を生み出す。教団が指導者と平信徒で構成されており、指導者は超越的存在者との媒介的役割を果たすという、あまりにも自明であると考えられている知見は、以上のような権力論的布置によって支持されている。それに対して、本論で採用している認識論的前提は、状況原則としての内在性と、行動原則としての自己否定である。この考えは、実践者が固有の身体実践によって、現在の意識状態が否定され、自己意識が自己の外部へと拡張した意識になるという「自己否定」的な自己超越意識の主体的内在的な変容のベクトルと、その結果開かれる例外的な世界=意識次元に着目している。だから、あらかじめ超越的世界を設定し、その超越性と越境行動の矛盾を梃子にして、その空間と世俗とを媒介する主体の存在の社会的優越性という擬制を結果として生み出すのではない。実践者個人の内在性の敷衍、展開する過程とそこに開かれてくる世界を記述し、理解しようとするのである。個人の実践とその意識展開に着目するこうした実践論は、宗教学における「認識論的転回」とも呼べるような「実践論的転回」の可能性を示している。この点については、注(13)参照。

(12)身体を加えて、心、魂、スピリットという四つの位相によって普遍的な自己性を考えてきた中心的な思想は、ペレニアリズム(伝統主義、永遠の哲学)である。

(13)スピリチュアリティを以上のような実践論的視座から捉え語ろうとすることには、宗教研究上のきわめて重要な意義がある。人文社会科学を席巻したポストモダニズムを批判的に検討することを通して、言語論的転回から実践論的転回への転換とその重要性については、樫尾直樹「比較瞑想論と宗教間対話―宗教研修の実践論的転回へ」、樫尾直樹・本山一博編『人間に魂はあるか?―本山博の学問と実践』、国書刊行会、二〇一三年、八三―一一八頁参照。

(14)樫尾二〇一〇年前掲書参照。

(15)「実践」に着目したとき、そこにはいろいろな二項のセットを設定することができる。たとえば、自力と他力、行動と祈り、行動と存在、変革と受容、意識変容と社会倫理などが考えられるだろうが、ここでは、これまで筆者が使用してきた「個人意識性」「社会倫理性」概念を理解する上で最もシンプルで理解可能性の高い、本山博の「個人性」と「社会性」という二分法の概念構成を補助としたい。

(16)「臨床」(clinical)という術語は、医学・看護学の領域では本来、医者・看護師が患者の病床のそばにいるという状態、行くという行為の意であり、じっさい診療・看護が行なわれる現場を指している。近年では、教育学や社会学などでも教育やその他の実践が行なわれる対面的現場としてパラレルに使用されている。しかし、ここでは、「臨床」のそうした含意を少し広くして、「自己が他者や社会・環境へと開かれて行く実践的事態」という意味を与えている。

(17)樫尾直樹「スピリチュアリティとは何か―現代文化の霊性的諸相」、樫尾直樹編『文化と霊性』、慶應義塾大学出版会、二〇一二年、二七頁。この定義のメリットのひとつは、全体論的な世界観というスピリチュアリティの文化的次元や共生社会・環境というその社会的次元が、スピリチュアリティを生成させる諸実践とそれによる自己超越という意識変容という事態に同時に相即する、同じスピリチュアリティに共時している局面=アスペクトであるということにもしっかりと過不足無く配慮している点である。

(18)ケン・ウィルバーの提起したインテグラル理論に基づいている。たとえば、ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』、松永太郎訳、春秋社、二〇〇八年(Wilber, Ken 2006 Integral Spirituality: A Startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern World, Shambhala publications, Boston.)参照。

(19)筆者はこれまで、樫尾前掲書、二九―三〇頁の注(8)などにおいて、瞑想の一般理論への足がかりとしての考察を続けてきたが、この瞑想の定義は現時点における到達点である。

(20)管見によれば、道元は『正法眼蔵』の中で少なくとも三カ所において、この「自己が世界と親しくなること」について言及している。ひとつは「現成公案」の「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。」の段で、魚と水、鳥と空との分つことのできない親密な関係性に喩えられるように、それとして自己に知られることはない点にさとりが現成するとしているところ(道元『正法眼蔵(一)』、増谷文雄全訳注、講談社、五一―五二頁)。いまひとつは「密語」の「いはゆる密は、親密の道理なり。無間断なり、」の段で、ここで言われている「密」とは、坐禅を通して顕われる、全一的宇宙と自己との親しさである(道元『正法眼蔵(五)』、増谷文雄全訳注、講談社、一八一頁)。三つめは「唯仏与仏」の「また尽大地是解脱門とは、いかにもまつはれかかふることなきになづくるなり。尽大地のことばは、ときにもとしにも、こころにもことばにもしたしくして、ひまなく親密なり。」の段で、すべての大地は何も間に挟むものはなく、無辺際であり、それがすなわち真の我が身なのであると道元は述べている(道元『正法眼蔵(八)』、増谷文雄全訳注、講談社、二一五―二一六頁)。

(21)この非二元性については、特に、ケン・ウィルバー『進化の構造I・II』、松永太郎訳、春秋社、一九九八年(Wilber, Ken 1995 Sex, Ecology, Spirituality, Shambhala Publications,Boston)の第八章を参照。

(22)井筒俊彦『意識と本質』、岩波書店、一九九一年、二一四頁。

(23)「丹田」とは、道教の世界観に基づいた中国医学における、私たちの不可視の身体のエネルギースポットである。臍下数センチの下(臍下)丹田、胸中央の中丹田、眉間の上丹田の三つがあり、単に「丹田」と言われる場合、一般に下丹田を指す。

(24)坐禅の意識の特定対象への滑り出しを止めることを「サマタ」というのに対して、「ヴィパッサナー」は「よく観察する」という意味のパーリ語である。「ヴィパッサナー瞑想」は、自分の呼吸や身体部位や動作を深くじっくりと観察することを基本とする。坐禅が坐るだけなのに対して、この瞑想は坐るに加えて、立つ、歩く、臥すという体位でも行なわれる。鼻や下腹部の息の動きを観察するゴエンカ派と、自己の身体やマインドの気づき(サティ)に内語を入れて行くマハーシ派のふたつに大別できる。ウォーキングする場合、ゆっくりとした深い呼吸に合わせながら、前者の場合たとえば足裏の圧に気づいていく。後者の場合、足が床(地面)を離れたとき「離れた」と内語するか、着いたとき「着いた」と内語して自分の現に行なっていることに気づいていく。また立つ場合は、足裏の圧のかかり具合を観察する。歩く場合以外の大半のとき閉眼の状態を保つが、眼を閉じているので視覚による外部からの刺激が入ってこないので、瞑想に専心できるという利点があると言われている。呼吸など自分の現在行なっていることや状態を観察することによって、その他の自分の外部の事象へ意識が勝手に滑り出していくことがないようになり、それによって無心、ノーマインドの状態を維持することができる。「マインドフルネス」は、上座仏教で実修されてきたこうしたヴィパッサナー瞑想から仏教的要素を排除して、心身の健康によい身体実践として再構成されたストレス低減法で、マサチューセッツ医科大学名誉教授のジョン・カバット=ジンが開発した。ジョン・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』、春木豊訳、北大路書房、二〇〇七年(Kabat-Zinn, Jon 1990 Full Catastrophe Living: Using the Wisdom of Your Body and Mind to Face Stress, Pain, and Illness, Delacorte Press, New York.)参照。「よく気づいている」という意味で「マインドフルネス」と呼ばれ、坐禅と並んで、そして現在坐禅以上に、世界的規模で実践されている。近年、アメリカ合衆国を中心として、インテル、グーグル、IBMといった大手IT関連企業の社員研修としても、マインドフルネスは取り入れられている。

(25)「阿字観」とは、真言宗の本尊である、蓮の台座の上に梵字の第一文字である「阿字」が描かれた板を眼前にして、阿字を自分の胸の中に入れて観想する瞑想である。この板の裏面には満月の黄金の輪郭が描かれており、それを観想することで、平面の月を球体にイメージして自己の胸の中に入れ、無限の宇宙にまで徐々にその月を大きくして、宇宙とひとつとなった状態でそこに留まる。その後、今度は逆に徐々に月を小さくしていき、ふたたび自分の胸の中に納め、最後にその月を板に戻してやる。この瞑想を月輪観といい、両者を総称して阿字観と呼ぶ。いずれの瞑想も、心のイメージ化能力を最大限に活性化させる、典型的な密教瞑想である。

(26)「クンダリニーヨーガ」とは、尾てい骨内に眠る本源的エネルギーであるクンダリニーのエネルギーを、脊髄のスシュムナー管という不可視の気脈を通して上昇させ、頭頂のエネルギースポット(チャクラ)であるサハスラーラチャクラより脱体させる瞑想である。クンダリニーエネルギーが脱体すると同時に、身体外部からサハスラーラチャクラを入り口として、宇宙の本源的エネルギー(神)が瞑想者の身体をズドンと貫いて行く。その過程で、瞑想者は真の無心と、宇宙(=神)との非二元的合一=不二を体験する。

(27)「内丹法」という瞑想は、道教で開発されてきた。心の働きの寂滅や昂進(イメージ活用)という心・意識からアプローチするのではなく、私たちの身体を生かしているエネルギーである、気(インドではプラーナ)を活用した瞑想である。内丹法は、繊細に微細なエネルギーを下丹田に蓄積して、それを任脈や帯脈や督脈といった、気が流れる主要な不可視の身体=経絡を循環させることによって、より深い意識と身体の状態を作る。それによって、人間のセンターである下丹田でのきわめて深い呼吸を実現することができ、非常に落ち着いた、リラックスした精神状態を維持することが可能になる。上半身は軽く、力が抜けており、下半身に重心が置かれるこうした理想的な心身状態を、道教では「上虚下実」と呼んでいる。内丹法には、その達成の段階によって十三のステップがあるが、下丹田に気というエネルギーが蓄積され、それが身体の経絡のすみずみにまで備給されると、最終的には、下丹田に「陽神」と呼ばれる生命エネルギーの核にして、自己=自己の分身である真我が形成される。この陽神が身体の見えざる中心管を通って、頭頂より脱体(脱胎)することによって、無心の状態と宇宙と合一した不二の状態が達成される。内丹法は、このようにエネルギーと身体を活用することによって、気が満ち満ちたきわめて強い健康な心身を創造するが、この方法は、注(26)で説明したヒンドゥーイズムのクンダリニー・ヨーガや、密教のアヌ・ヨーガ、およびチベット仏教のゾクチェン(大いなる完成)の方法と極めて近い。

(28)坐禅・マインドフルネスという放棄(顕教)の瞑想、およびイメージを活用した瞑想である変容(密教)の瞑想は、それぞれ異なった行態でありながらも、いずれも坐るなど身体を静かな状態において行なう、いわば「静的瞑想」である。それに対して、身体を活発に動かし、ときに必要に応じて呼吸を早く短く行なう瞑想がアクティブ(動的)瞑想である。現代世界の瞑想の世界において、このアクティブ瞑想の現代人にとっての重要性を深く認識し、それを複数の瞑想による瞑想体系へとまとめあげ実践したのは、OSHO(かつてのバグワン・シュリ・ラジニーシ)であった。それゆえ、一般にアクティブ瞑想というと、このOSHOの瞑想が想起される。OSHOのアクティブ瞑想は、現代において瞑想を行なうには避けては通れないものであると思われる。それはOSHOの言うように、私たち現代人はさまざまなメディアによって心の上に感情や欲望のゴミが堆積しすぎており、それをまず払い落としてからでないと静かに坐ることができないからである。自分の心(マインド)を観察しようにも、その当体を浄めださねば、観察のしようがないように、私たちの心は汚濁にまみれてしまっているのである。「ダイナミック瞑想」は、そうしたアクティブ瞑想の代表的実践である。「ダイナミック瞑想」では、まず早く短く不規則な呼吸をして心拍数をあげ、深層意識に沈殿したネガティブな感情を外に表出しやすくした後、怒りなどの負の感情をはきだす。その後、両手を肩より上に挙げた状態で、かかとを強くふんでジャンプし続け、第一(ムーラダーラ)チャクラを活性化させて、プラーナ(気)を中心管に通して上昇させる。そうやって身体のエネルギー系回路に働きかけ、無心=ノーマインドの状態を作り上げた後に、坐るか臥せるかする。類似した瞑想に「クンダリニー瞑想」(「クンダリニーヨーガ」とは異なっている)があるが、この瞑想では、まず身体をふるわせ、第一チャクラを活性化させた後に踊り、坐って観照し、横たわる。いずれも、身体を激しく運動させ、第一チャクラを活性化させることによって、結果的に意識の系に働きかけ、心(マインド)が自分の外部へと流れ出し、気散じになってしまう状態を避け、自分の内側、すべてを映し出す心という鏡を静かに観察する。そうして、自分の中で留まっている状態へと導いていくのである。OSHOのアクティブ瞑想には多くの種類があるが、ヒンズー教のヨーガのチャクラ理論=実践をベースに、チベット密教やスーフィズム(イスラーム神秘主義)、インド仏教、中国・日本仏教など古今東西のさまざまな瞑想群から構成されている点に特徴がある。

(29)この節で言及している瞑想の果実については、日本を代表する新約聖書学者であり、三宝教団の禅の老師である佐藤研と共に行なっていた比較行研究会での佐藤の坐禅に関する発表に多くを負っている。

(30)ここでは瞑想の一般理論をわかりやすく提示するために、瞑想のネガティブな側面については直接言及することができなかったので、少しく触れておきたい。実践者の個人史やメンタリティ、人格などによって異なるが、瞑想は通常意識を停止させるので、その下に眠っている深層意識に長年降り積もり堆積していた怒りや恨み、嫉妬や悲しみ、貪欲といったネガティブな感情や欲望が一気に噴出してくる。これは瞑想の自己意識拡張作用によって、自己肥大、自己膨満が起こってくることとパラレルである。禅宗では、こうした状態を、神霊の体験などと同様に「魔境」と呼んでいる。瞑想を始めるといつの時点でか、必ずこの魔境に出会うことになる。だから、瞑想にはそうした状況に対処できるように、ちゃんとした師に付き指導してもらうことが必須である。瞑想の否定的側面については稿を改めて論じなければならない。

(31)この見解は基本的には妥当であると筆者は考えているが、たとえば坐禅のように禅堂での集団生活を基礎として、集団で坐ることこそが正統な坐禅であるとみなされているものもある。

(32)Deleuze, Gilles 1968 Différence et répétition, Presses Universitaires de France, Paris.(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』、財津理訳、河出書房新社、一九九二年)参照。

(33)私はかつて、スピリチュアルケアの社会倫理的なスピリチュアリティを、瞑想における現在の自己とそれを見る高次の自己との関係性をモデルにして、前者をクライアント、後者をスピリチュアルケアワーカーと見なして、クライアントが、高次自己役割のケアワーカーを鏡として自分の生死と向き合い、それを受け入れる過程として記述した。しかし、ここでの考察から、瞑想における垂直的な自己否定だけではなく、両当事者の水平的な応接の重要性に気づいた。樫尾二〇一〇年前掲書、第五章参照。

(34)アルコホーリクス・アノニマスについては、葛西賢太『断酒が作り出す共同性―アルコール依存からの回復を信じる人々』、世界思想社、二〇〇七年参照。

(35)「十二ステップ」とは以下である。一、私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。二、自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。三、私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。四、恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それに表を作った。五、神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。六、こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。七、私たちの短所を取り除いてくださいと、謙虚に神に求めた。八、私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。九、その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。十、自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。十一、祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。十二、これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクスに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

(36)この交感としてのコミュニケーション=「コミュニカシオン」の概念については、モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』、西谷修訳、筑摩書房、一九九七年(Blanchot, Maurice 1984 La Communauté inavouable, Les Éditions de Minuit)を参照。

(37)経営理念とスピリチュアリティについては、渡辺光一・岡田正大・樫尾直樹 「経営理念の浸透度と企業業績の関係」『Works』11(4)、リクルートワークス研究所、二〇〇五年、一七―二〇頁参照。

(38)ジェームズ・C・コリンズ、ジェリー・I・ポラス『ビジョナリー・カンパニー―時代を超える生存の原則』、山岡洋一訳、日経BP社、一九九五年(James C. Collins, Jerry I. Porras 1994 Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies, HarperCollins Publishers, New York.)参照。

(39)稲盛和夫の経営哲学とその実践、およびその背景にあるスピリチュアリティについては、編者らが彼に行なったインタビューの記録である、稲盛和夫「私が神仏を感じたとき―魂の経営哲学」、樫尾直樹・本山一博編『人間に魂はあるか?―本山博の学問と実践』、国書刊行会、二〇一三年、二〇一―二三一頁を参照。

(40)http://www.kyocera.co.jp/inamori/philosophy/(最終アクセス、二〇一五年七月一七日)参照。稲盛経営哲学の詳細については、本書第六章を参照のこと。

(41)http://www.kyocera.co.jp/inamori/philosophy/philosophy20.html(最終アクセス、二〇一五年七月一七日)参照。

(42)この二極は、数年前に宗教学者の島薗進氏からご教示いただいた。現在でもそうだが、前者の生き方を重んじていた筆者にとっては、じっさい目から鱗であった。記して謝意を伝えたい。

(43)こうした認識からすれば、教団としての宗教社会における共同性の生成の根源には、宗教的身体実践としての瞑想や祈り、儀礼があることが了解される。教団の構成員によって形成される組織やそこにおける聖俗関係を含んだ諸関係性にもっぱら注目することによって、教団の共同性を考察してきた従来の宗教社会学は、この点を大いに熟考し、宗教的共同性の根本を探究する学問へと変身しなければならない。

(44)注(30)を参照のこと。

(45)宗教団体が排他的になったり、カルト化したりする根本原因はここにあると筆者は考えている。

article 3: 緊張を解くスピリチュアリティ-感じる心とからだを回復する- 樫尾直樹

(鎌田東二編『スピリチュアリティと宗教』(講座スピリチュアル学 第7巻)ビイング・ネット・プレス、2016年、pp.218-241.所収)

 

はじめに

 

 本稿は、「スピリチュアリティ」を瞑想という観点から理解するところから出発して、それらの伝統的源泉である宗教の社会的な機能不全という状況の中で現在「スピリチュアリティ」が求められていることを指摘した上で、現代的霊性のあり方と宗教とのありうべきより良い関係性を考察し、「スピリチュアリティ」の現代的可能性について、実践論の立場から明らかにすることを目的としている。

 

一.「スピリチュアリティ」とは何か

 

「スピリチュアリティ」という術語で表現される意味内容の射程は、宗教的、実存的、倫理的、社会的など、私たち人間の「生」の有り様に関わるさまざまな領域に広がっており、それゆえその形態は多様である。

 筆者は、そうした人間の営みの沃野のごとき「スピリチュアリティ」を、「自己超越意識」という観点を中心にして、これまで以下のように定義してきた。

 

「スピリチュアリティとは、固有の身体実践や社会的行為によって形成される自己超越意識(通常意識を超えた魂・霊的次元の諸意識段階で、自己が否定され、絶対的存在となんらかの形で一致した場所的個としての意識)であり、その意識に対応した、生死の意味(生きがい)やホリスティックな世界観、共生的社会(環境)として段階アスペクト的に体験・表出されるものである。」(1)

 

 この定義のメリットは、全体論的な世界観というスピリチュアリティの文化的次元や共生社会・環境というその社会的次元が、スピリチュアリティを生成させる諸実践とそれによる自己超越という意識変容という事態に同時に相即する、同じスピリチュアリティに共時している局面=アスペクトであるということにもしっかりと過不足無く配慮しようとしている点にある。

 多様な「スピリチュアリティ」現象をよりよく理解するために、この定義をもとにして、「スピリチュアリティ」を大別すると、個人意識性と社会倫理性の二類型に分類することができる。前者、「スピリチュアリティ」が発現する個人意識的なアプローチとは、瞑想や行や祈り、あるいは武道や芸道のように固有の型の中に身体運動を落とし込んで行くような様々な身体実践である。それに対して、後者、社会倫理的なアプローチは、スピリチュアルケアやエコロジーのように、見かけ上自己の外部にあるとされる他者や環境へと自己を開いて行くような形で展開される、ある種のコミュニケーション的な実践であり、それは集団で行なわれる儀礼や他者への奉仕の場面にも観察されうるものである。

 前者、「スピリチュアリティ」の個人意識性の典型は「瞑想」、後者、社会倫理性の典型は「臨床」として、それぞれ統括的、象徴的に理解することができる(2)。

「瞑想」と「臨床」を実践という観点から見ると、両者は「スピリチュアリティ」の生成に関する二つの軸であると言えるが、両者の相補性を十分理解しつつも、利他的精神の涵養の容易ならざる点に着目すれば、前者、「瞑想」の実践上の先行性を指摘せざるをえない(3)。

 

二.「瞑想」の本質

 

 スピリチュアリティを醸成する中核的実践である「瞑想」を、筆者は以下のように理解している。

 

「瞑想とは、深くゆっくりとした呼吸と特定の坐法および意識の集中/留意を初期的基本的技法とし、心の働きの活用(単純化/活性化)、あるいは身体を媒介としたエネルギー操作という固有の諸身心技術によって、日常的身心状態を停止させ、心の系(意識の単純化→中心化→新しいより深い意識への脱構築)と、からだの系(エネルギー蓄積→循環・上昇→脱体)という、複数の意識階梯を経る身心一体の超出変容過程を螺旋的に反復しながら、定力強化/智慧発現と現象的実現(人格化・社会化)を共時的に伴って、最終的に自己が全一性(原理、一者等)と不二(非二元的合一)であるという状態に留まろうとする、身心実践複合である。」(4)

 

 ヨーガ、坐禅、ヴィパッサナー瞑想、聖句反復、マンダラ観想法、阿字観、月輪観、アティヨーガ、内丹法、太極法、アクティブ瞑想、グルジェフ・ムーブメンツ、霊操・・・・・・(5)。

 旧石器時代のヒーリングダンス(6)、シャーマニック・トランスから現在に至る一万年の間、人類は「瞑想」を実践してきた。その形態は多彩を極めるも、「瞑想」には上記定義のような共通点があり、その一般性を同時に指摘することができる。

 「瞑想」とは何か。

 上記定義を平たく開くと、一言で言えば、あらゆる緊張から解かれてリラックスすることである。私は、瞑想のこの本質を、チベット仏教のリンポチェ(優れた師僧への尊称)、ナムカイ・ノルブ・リンポチェから学んだ(7)。

 私たちは、ふだんの生活ではたいてい、ときに漠然と、あるいはときに明確に、ある物事や人物、出来事などに意識が向いていて、常に気が散っている。特に何か心配事や不安なことがあると、今すべきことを放ったらかしにして、そのことにマインドが支配され、その事実を忘れてどんどん巻き込まれていってしまう。強度の差や、ネガティブなことと、嬉しさや喜びといったポジティブなこととの違いこそあれ、そんな気散じの中に我を忘れて、右往左往して一生を終えるのである。

 こうした事態は別の言い方をすれば、自分と自分以外の物事や人との間にいつも緊張関係を作り上げて、心もからだもリラックスすることなく、こわばって、つまりは不自由な中で生きるということにほかならない。

 では、こうした緊張したリラックスできない事態を作り出している根源は何だろうか。

 それは、世界のあらゆる物事を、自分と自分以外のものに分ける二元論的思考(志向)性である。私たちは、この二元論によって、物事を、いい悪い、好き嫌い、自分と他人、味方と敵といった二つの項に分けて世界を見て、それに基づいて行動しようとする。こうした二元論は、最終的には、他者への暴力、差別、戦争へと直結する。容易に解けない緊張を一気に解消しようとして、私たち人間は攻撃的な手段を取るのである。

 世界の諸問題の根本的原因は、以上からすれば、究極的には二元論にあると言える。だから、二元論、つまり自他を分けてその間に緊張関係を創出するという行動様式を緩ませることが諸問題の解決に結びつくのである。

 もちろん、私たち人間は、その言語作用によって、人間主体から意識が滑り出して対象を把握するという半ば本能的な性向を持っているから、主客二元論を乗り越えることは口で言うほど容易なことではないことは言うまでもない。

 だからこそ、瞑想が重要になってくるのである。

 どの瞑想も、現在の自分の知覚や認識を停止させ、自己の外部へと向かう意識のベクトルを切り、自己の内部へとその意識を振り向け、自分自身の有り様としっかりと観察することを通して、気を散らすことなしに自己の中に留まり、ゆったりとリラックスできるよう、実践者を導いていく。意識を統御することを入り口とする(心の系)か、あるいは身体を意図的に活用してエネルギーを蓄積、循環させることを入り口とする(からだの系)かの違いはあれ、ゆっくりした深い呼吸を媒介にして、心をからだはその本来の表裏一体の状態を回復しつつ、瞑想は深まっていく(8)。

 「悟り」や神との「合一」といった宗教神秘主義における原理や唯一神との「非二元的合一」(9)もしくは「不二」とは、自己と世界/宇宙とが二つならぬものであることが実感される(生きられる)という事態だが、それは上で説明したような緊張のないリラックスした状態の究極のものであると位置づけることができる。

 自分の右手と左手は身体の両側についた二肢だが、それらは同じひとつの身体であるという点において二つではないのと同じような感覚で、自己と他者、自分と世界とは同じひとつのものであるということが心身魂全体でまるごと、あるがままに実感されるという事態が、「悟り」である。

 私たちは皆、宇宙の展開の人類的次元の一現象である、という意味で元ひとつなのである。

 だから、瞑想においては、それがもたらす軽いリラックスの気分と、不二における究極のリラックスとは、まったくもって同じグラデーションの地つづきなのだ。

 そして、このことこそまさに、スピリチュアリティの真髄である。

 

三.宗教の困難な現状とスピリチュアリティの希求

 

 宗教は、スピリチュアリティの真髄の生成装置として人類史において中心的な役割を果たしてきたことは、誰しもが認めるところだろう。この意味で、宗教はスピリチュアリティの本家本元であった(10)。

 しかしながら、宗教、特に教団形態をとる組織宗教は、近代以降、とりわけ一九六、七〇年代以降、その役割を相対化させてきた。狭義の宗教に代わって、スピリチュアリティの発現を担ってきたのが、現代霊性文化、新霊性運動=文化である(11)。

 たとえば我が国では、仏教や神道などの伝統宗教や新宗教のほとんどは、現代の霊性文化を対抗勢力として捉え、自らの教勢拡大の障害として位置づけているか、あるいは無視するか、という態度を取っている。管見によれば、そうした近現代宗教は、一言で言えば、できれば従来の伝統的な布教方法で教勢を伸張させたいという、現状を考慮しない、いわばぬるい墨守的考え方を依然として保持しており、現代社会における意識とライフスタイルの大きな変容についてはさほど関心を見せない身振りをしている。

 そのため、近代以降の宗教の一社会文化領域化とそれに伴う相対的な世俗化と相まって、二重の意味で現代人のニーズに応えられなくなっているのである。

 そうした兆候はたとえば、伝統宗教、新宗教を問わず、常に宗祖・教祖をその崇拝の中心に置くとともに、祈りや瞑想、行などの身体実践を相変わらず旧来と同じように反復し、現代人のメンタリティに対応したイノベーションを遂行することによって自教団の中に新たな「宗教改革」を起こそうというような機運は見られない、というところに明らかに観察される。

 いわば、教義と実践の同時代的なバージョンアップによって、宗教の普遍性、当該教団の普遍宗教性の模索と確立が喫緊の課題であるにもかかわらず、自分たちの「伝統」に固執することによって自己同一性をかろうじて維持しているのである。

 たしかに各教団の布教の現在を見るにつけ、横ばいあるいは右肩下がりの教勢という状況からすれば、まずはとにかく教勢維持が第一の目標となることは理解できないわけではない。とはいえ、各教団の存亡以前に、「宗教」の衰滅こそが問題になっている今日、求められているのは教団ではなく、「宗教」を布教することなのである。

 教団は、その「ユニバーサルモデル」という要請に応えられていないだけではない。現代社会固有の心身の病理という壁をうまく超えられないばかりか、そうした壁があることすら自覚されているように見えるのは私だけであろうか。

 その現代的病理はいろいろ指摘されているが、ここでは特に、失感情(言語化)症(12)と、それらと連動することもある過剰適応を挙げておきたい。

 前者は、症状的に簡単に説明すると、「自分の気持ちがわからない」ということである。自分が今辛いのかどうか、あるいは嬉しいのかどうか、それを自分で感じ、判断することができないのである。現代のネットと技術が発達したコンビニエンスな都市的な消費社会では、生々しい対面的コミュニケーションの頻度が著しく減っており、それに伴ってそうした交感場面が回避される傾向にある。しかし、私たちの情動や意思の表出欲求は減少するわけではないから、必然的にそうした欲動は無意識下に蓄積されていく。それに加えて、テレビやネットや映画などの画像、動画メディアの発達によって、私たちはディスプレイや液晶画面を通して、他人の演じるまったく関係ない架空の人間の感情をネガティブ、ポジティブを問わず浴び、いわば他人の「感情のコミ箱」と化しているという意識されない悲惨な現状がある。しかしそれを自己の外部に何らかの形で発出する機会は相当に減っている。それによって今自分がじっさいどんな気持ちなのかは相対化され、その実態は漠然とした曖昧なものとして自分の内外を浮遊することになるのである。

 こうしたいわば特殊な「不感症」が持続すると、私たちはただ自分が置かれた社会環境、人間関係の中で、自分のリアルな気持ちや意思、思惟を実感することなく、その場の役割をこなす、演じることに終始した人生を送ることとなってしまう。後者の「過剰適応」とはまさにこうした、これまた恐るべき事態である。

 こんな壮絶な現代人の心身状況に対して、宗教はどう向き合っているのだろう。現状はまさに困難な状況だと言わざるをえない。かつての宗教の持つ凄みはすでに多くの人々には感じられなくなっているのである。

 教団宗教ではなく、むしろ宗教的文脈を外したところでスピリチュアリティが求められている訳とはこのあたりにある、と筆者は考えている。スピリチュアルケア、自助団体、ヨーガ、マインドフルネス、エコロジー、いのちの教育、宮崎アニメや江原スピリチュアリズムなどの大衆文化、経営理念といった、現代の霊性文化(13)が興隆してきたのは、以上のような社会・宗教意識や形態の大きな変容を背景としていたのである。

 

四.現代宗教の終焉=目的-その戦略的可能性としてのマインドフルネス

 

 組織としての宗教は、以上のようないくつかの根本的な問題を抱えている。しかしそれはとりもなおさず、すぐに「宗教の終焉」を意味するわけではない。

 なぜなら、先に述べたように、スピリチュアリティの中核的実践である瞑想を人類史の中で保存、継承、発展させてきたのはまさに宗教にほかならないからである。この意味で、宗教は、現代においても依然として、スピリチュアリティの有益なリソース、あるいはプラットホームであり続けている。

 とはいうものの、結論を先取りして述べるならば、前節で言及したように、普遍宗教性を企図した、瞑想(行)実践のユニバーサルモデルを構築することによって、人々を救済しようという意志が足りないのだ、と私は思う。

 以下、この点について、「終焉」ではなく、宗教本来の「目的」という観点から考察を加えてみたい。

 宗教が「書かれたもの」としての教理を中心として正統化されたのは近代以降のことであり、その意味でそうした事態はそれほど新しいことではない。この「宗教」にとっての特殊な事態は、その後、二十世紀に入ってからの技術革新によって引き起こされてきた、言語とそれが指示する対象との間の関係性のある意味で不可逆的な変化によって加速されることになる。

 それは、ベンヤミンの指摘した「アウラの消失」(14)やボードリヤールの言う「シミュラークル」(15)に相当する現象であると言える。つまり、複製技術に代表される技術革新によって、物の実在の固有性が複数化することで相対化され、いわば「このもの性」が失われ、その存在を直接的に実感するのではなく、むしろそれを指示する言語表現の「記号」として把握されるようになったのである。これによって、物はその実在を感じられるものではなくなると同時に、現象や事態は体験、体得されるものではないという側面が優越するようになる。

 言語が素朴に観念を表現するというサルトル的な言語道具観が信憑性を持たなくなり、ポストモダニズム的な言語論的転回が生起したという認識論的転倒を、私は「二十世紀における記号空間の成立」とさしあたりここでは呼んでおきたい。ソシュール、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ローティという思想の横断線が示しているのは、言葉の指示対象との一体性が徐々に稀薄になっていく社会文化的な過程であり、最終的に、両者の関係性は恣意的なものであり、文化的に相対的なものである、という認識に到達したのである。こうした過程の背景には、グローバル化による他文化知識の流入による自文化の相対化という事態や、動力機関による豊かさの出現によって、物のありがたみ、希少性の観念が弱まり、「このもの性」が減縮していったという事態などを仮説的に想定することができるだろう。この百年余の間に、”Anything goes / anyone goes.”とでも表現できるような大きな文化意識の不可逆的な変容があったのである。それは、人類史上、言葉と物との距離が最大化したということであり、それはまた自他へ(として)の「不信」の最大化でもあったと思われる(16)。

 事物や存在者の感受される実体ではなく、記号やそれに基礎を置く概念として指示されるような現実のあり方を批判する立場こそ、近代以前の宗教で会ったのだが、教理としての宗教と、近代的な一領域として相対化されたそのポジションは、逆に「記号空間」を正当化することに加勢し、その本来の「目的」を手放してしまった。

 現代世界は、以上のような宗教の社会的位置づけを継承するものであるが、それゆえかつてのその「目的」をそのままの形で復元することはもちろん不可能である。

 では、現代の宗教には「記号空間」に抗する、いったいどのような戦略が残されているのだろうか。次にこの点について、現代のスピリチュアリティ文化の中から適切な事例を取り上げて具体的に考えてみよう。

 現代における宗教の戦略的可能性について考察するのに最もふさわしい事例は、やはり、「マインドフルネス」ではないだろうか。

「マインドフルネス」とは、上座仏教のヴィパッサナー瞑想から、仏教色を除去して再構成された瞑想法である。

 坐禅の意識の特定対象への滑り出しを止めることを「サマタ」というのに対して、「ヴィパッサナー」は「よく観察する」という意味のパーリ語である。「ヴィパッサナー瞑想」は、自分の呼吸や身体部位や動作を深くじっくりと観察することを基本とする。

 坐禅が坐るだけなのに対して、この瞑想は坐るに加えて、立つ、歩く、臥すという体位でも行なわれる。鼻や下腹部の息の動きを観察するゴエンカ派と、自己の身体やマインドの気づき(サティ)に内語を入れて行くマハーシ派のふたつに大別できる。ウォーキングする場合、ゆっくりとした深い呼吸に合わせながら、前者の場合たとえば足裏の圧に気づいていく。後者の場合、足が床(地面)を離れたとき「離れた」と内語するか、着いたとき「着いた」と内語して自分の現に行なっていることに気づいていく。また立つ場合は、足裏の圧のかかり具合を観察する。歩く場合以外の大半のとき閉眼の状態を保つが、眼を閉じているので視覚による外部からの刺激が入ってこないので、瞑想に専心できるという利点があると言われている。

 呼吸など自分の現在行なっていることや状態を観察することによって、その他の自分の外部の事象へ意識が勝手に滑り出していくことがないようになり、それによって無心、ノーマインドの状態を維持することができる。

「マインドフルネス」は、上座仏教で実修されてきたこうしたヴィパッサナー瞑想から仏教的要素を排除して、心身の健康によい身体実践として再構成されたストレス低減法で、マサチューセッツ医科大学名誉教授のジョン・カバット=ジンが開発した(17)。

「よく気づいている」という意味で「マインドフルネス」と呼ばれ、坐禅と並んで、そして現在坐禅以上に、世界的規模で実践されている。近年、アメリカ合衆国を中心として、インテル、グーグル、IBMといった大手IT関連企業などの社員研修としても、マインドフルネスは取り入れられている(18)。

 ヴィパッサナー瞑想/マインドフルネスは、第二節で言及したような瞑想の本質を説明する際、心の系列瞑想の側からの最も適した事例となる。

 瞑想とは、二元論的志向性によってもたらされる緊張を解くことであることをそこで確認したが、マインドフルネスの実践者は、自己の外部へと向かう意識の気散じを断ち、まずは鼻の呼吸を観察することを通して意識を自己の内側へと向け返すことによって、自己と他者とを分けることによって生じるあらゆる緊張関係に巻き込まれないようになる。自分の心の鏡に生じくるもの、生じてこないものすべてに意識が固執することなく、その消滅のなすがままの流れをただ眺めている。すると、その心のプロセスは自然と消え去り、その明滅のインターバルが徐々に短くなっていくことで、寂静かなる穏やかな心を持続することができるようになる。これによって、その実践者は、ストレスから少しずつ解放されていくのだ。

 上座仏教という特定の宗派に所属していなくても、それ以前に仏教徒でなくても、あるいは他の瞑想の実践者であっても、宗教、宗派、イデオロギー、ジェンダー、民族を問わず、あらゆる人々がこのマインドフルネスを実修することができる。これこそがまさに、特定瞑想のユニバーサルモデル化である。

「非二元的合一」や「不二」という術語で表現されるような「悟り」や神との「合一」へと向かうかどうかは、実践者本人に委ねられている。

 マインドフルネスとしては、さしあたりストレスが低減し、その結果、集中力ややる気、チームワークが向上し、幸福感が増大すれば事足りるのである。不安や恐怖、イライラや嫉妬のネガティブな感情に巻き込まれて、不毛な辛い人生を送るよりは、過不足なく多くを求めないでも満ち足りた「心のデフォルト状態」(19)という真の幸福の時空を生きられれば、お釣りがくるくらい十分ではないだろうか。

 私の私淑する師匠のひとりは、マインドフルネスを称して「サラリーマンの瞑想」と呼んだが、その広まりという点からすればたしかに適切なネーミングだが、そのように否定的に捉える必要はないのではないかと、私は思う。ヴィパッサナー瞑想という宗教瞑想から脱宗教文脈化させたマインドフルネスは、それによってある種の普遍性を獲得した。そしてそれによって世界のたくさんの地域で実践されるようになり、多くの実践者に心の平安をもたらして、実社会の中で生き生きと生活し働ける術を提供したのである。この瞑想の普遍性には、先に言及したようにマインドフルネス自体の瞑想としての実践的普遍性がすでにあることはあるのだが、それを割り引いてもこうした見解は妥当性を持っているのではないかと思う。

 もちろん、瞑想の脱宗教化による問題性がないわけではない。

 実践者の個人史やメンタリティ、人格などによって異なるが、瞑想は通常意識を停止させるので、その下に眠っている深層意識に長年降り積もり堆積していた怒りや恨み、嫉妬や悲しみ、貪欲といったネガティブな感情や欲望が一気に噴出してくる。これは瞑想の自己意識拡張作用によって、自己肥大、自己膨満が起こってくることとパラレルである。禅宗では、こうした状態を、神霊の体験などと同様に「魔境」と呼んでいる。瞑想を始めるといつの時点でか、必ずこの魔境に出会うことになる。だから、瞑想にはそうした状況に対処できるように、ちゃんとした師に付き指導してもらうことが必須である。

 マインドフルネスは、あらゆる瞑想の中で独りで行っても、心身上最も危険性の少ない瞑想である。とはいえ、脱宗教化したとはいえ、瞑想は瞑想である。通常の身体、意識、呼吸がもたらすエネルギーの流れとは異質な流れを喚起する。だから、そうした異質なエネルギーの流れに対して自覚的であり、何らかの障害が生じたときに適切な対応ができないと、心身に取り返しのつかない問題が起こることがある。

 また、瞑想を通じて利他に目覚めたとき、深い謙虚さがないとまさに自己肥大、自己膨満という「魔境」に計らずも陥入してしまうことになるだろう。ここに、瞑想を保持、継承、発展させてきた偉大なる宗教伝統における不可視の力に対する統御の正統性の重要性を感得できる。

 

五.自己決定から自己否定へ-感じる心とからだの回復

 

 さて、これまで本稿では、スピリチュアリティとその中心的実践としての瞑想とは何かを示すことから出発して、スピリチュアリティ生成の真髄的場としての瞑想を開発してきた宗教が現代において孕む諸問題を確認することを通して、なぜ近年スピリチュアリティや霊性文化が興隆し注目されてきたのか、そして宗教はその価値ある瞑想実践のリソースをどのような形で普遍化し現代社会のニーズに応えることができるのかについて、マインドフルネスをその典型的な参照例として考察してきた。

 最後に、以上の諸考察を、広く思想史的文脈の中に位置づけることによって、宗教とスピリチュアリティとの、望まれるより良い関係性とはどのようなものなのかについて、私たち人間主体のあり方と生き方を参照軸としながら私見を述べておきたい。

 現代世界では、徐々に弱い自己のあり方が、強い自己のあり方を凌駕してきている。「強い自己」とはモダニズムの前提とする主体の存在様式であるのに対して、「弱い自己」とはポストモダニズムのそれである。心理学的言説や技術が伝統的規範に取って代わり、すべての社会現象が心理学や精神医学の言葉で説明される「心理学化する社会」(20)をその社会文化的背景としながら、現代のスピリチュアリティ文化、特にトラウマサバイバーとその癒しなどのセラピー文化に、弱い自己の像は顕著に観察される(21)。

 同じセラピー文化におけるネットワークビジネスや自己啓発セミナーで求められる主体像は、自己責任が要求されるモダニズム的な強い自己であるが、そうした主体のあり方が、ポストモダニズムの思潮の傾向の中では、主体的判断としての自己責任から解放されていく。こうした「自己」への求心性から遠心性へという社会的評価の大転換は一方で同時に、現代の自己決定論ともきわめて鮮やかな対照を描いている。

 以上のような思想史的変化に対して、脱宗教化されることで同時に個人化される現代的なスピリチュアリティの顕現の場としてのマインドフルネスのような「瞑想」が、その背後に埋蔵されている宗教的伝統を暗黙のリソースとして、私たちに指し示すのは、自己責任や自己決定といった自己のあり方とはまったく異なった古くて新しい自己像である。

 「不二」や「非二元的合一」といった、気散じ=緊張状態の究極的な、その意味で「宗教的な」解決としての至高の意識=存在のあり方に到達する以前の段階で、瞑想で感得されるのは、現在の自己のあり方がより高次の自己の出現によって観察されることで相対化されるという事態である。自分にしっかりと気づき(マインドフル)、自分の中でリラックスしているという心身の状態を、自己の二重化という認知から説明するとこのようになる。通常意識の自己にあるズレや破れが生ずるこうした事態は、伝統的に「自己否定」と呼ばれてきた。

 もちろん「自己否定」と言っても、それは自分のことをダメだと否定するのではない。そうではなくてむしろ、個人史の中で形成されてきた自分の嗜好性や志向性、判断の基準やその背景となっている社会的規範や慣習などによってがんじがらめにされて(形成されて)いる不自由な「自己」という檻、自分を取り囲む「鳥籠」(22)から自由になって飛び立つという意味である。

 したがって、この意味での「自己否定」という自己のあり方においては、その実現後には自己の主体的意識によって獲得され実施される「決定」という意味での「自己決定」というモメントはない。とはいえ、生きていく自分に責任が伴わないというわけではない。常に自己に留まって、よく自分の言動を眺めそれに気づいている、そしてそのことが自他を二元論的に分けないという意味で自分と世界とは不二であるという点からすれば、自分に対する責任はむしろ、モダニズム的な強い自己における「自己責任」という個人に矮小化されたそれとは異なって、無限に及ぶと言うこともできる。

 「矮小化」という表現をより敷衍すると、強い自己にしても弱い自己にしても、「自己」に固執し囚われているという点では大同小異である。そうした(ポスト)モダニズム的な主体に対して、この「自己否定」という実践は、そのような限定された「自己」を投げ捨てるのだ。この意味において、「自己否定」とは「自己放棄」「自己犠牲」という崇高な供犠的行為に等しく、ここにその起源としての宗教的伝統を垣間見ることができる(23)。

 スピリチュアリティを最も効果的に創出する(あるいはそれに気づかせる)瞑想が私たちに与える果実とは、シンプルに言えば、モダニズムもポストモダニズムも超出した「新しいライフスタイル」ではないだろうか。

 ただし、この「新しいライフスタイル」を社会の中に浸透させていくのはそれほど容易ではない。

 たとえば、たしかにマインドフルネスは、先進諸国を中心に広く実践者を生み出しているものの、あくまでも個人的実践であり、心の平安ややる気、集中力の向上という個人の現世利益の獲得に、そして研修としてそれを導入している企業は会社の利益増大にその目標が置かれている点に、社会的現象化の実現という観点からは限界性を感じざるをえない。もちろん、シュタイナーの言うように、仕事はすべて人のためにするものであるから、会社が儲かること自体は悪いことではないが、その半面、たしかに前節で言及した「サラリーマンの瞑想」という批判を全面的に否定することはできないとも思う。

 加えて、第三節で触れたように、現代人の「不感症」というメンタリティの疾患傾向を考慮すると、マインドフルネスなどの瞑想の効果がじっさいどの程度深まるのかについては疑問や懸念が残るという批判には真摯に耳を傾けなければならないだろう。

 この点からすると、まずは私たちの心の鏡に降り積もった情動や感情や思惟のゴミの山を少しずつかき出し、素直に感じるからだと心の健全で清浄な状態を作っていくことが最初の課題ではないだろうか。

 そのとき、瞑想や祈りやさまざまな利他行、儀礼などを通じて、人類の叡智の源として機能してきた宗教は、私たちにそのための豊かな方法と手段を望めば手渡してくれるに違いない。脱宗教化する現代のスピリチュアリティ文化が社会関係や制度に埋め込まれていくためには、ぜひとも宗教の培ってきた偉大なる文化の正統性が必要である。

 しかし、その一方で、当の宗教は、本稿でも指摘してきたように、時代の霊性的ニーズにうまく応えきれていないのも残念ながら現状である。そしてそれと同時に宗教学を中心とする宗教研究もその責任の一端を免れることはできない。

 宗教界と宗教研究に潜む根本的な問題性はいろいろあると思うが、その中でも私が一番致命的だと考えるのは、ポストモダニズム以降の言語論的転回がもたらした言説主義と反本質主義、反体験主義(身体性の二義性という主張)である。一言で言えば、ここで中心的に議論してきた瞑想に代表されるような「(身体)実践」に対する着目と関心を放棄しているという点である。

 「実践」を中心に据えた認識論的、存在論的立場の回復とはまさに、学問上の感じるからだと心の回復と言えるが、これを「実践論的転回」(24)と言う。スピリチュアリティ現象が宗教や文化、社会に与えてきたインパクトとは、「実践」の中に人類や世界にとって価値ある大切なことがあるのという点に集約できるだろう。

 この点についてはぜひ宗教界にも自覚的になっていただきたいと願う。感じる心とからだの回復には、瞑想や儀礼の、現代に適合した新たなイノベーションが必要なのだ。この意味において、マインドフルネスなどの現代スピリチュアリティ文化のある部分は、宗教の現代的展開であるとも解釈できる。維持経営に汲々とする教団とは異なって、これこそが真の「宗教」ではないかとも言える。

 宗教の種類や、宗派、イデオロギー、文化伝統、民族をその根底において超えた通奏低音、深層意識の地下水脈としてあるもの、それこそが人類共通の普遍的な「教え」(25)であり、それを本来的には「スピリチュアリティ」と呼ぶのであろう。

 いずれにしても、「先ず隗より始めよ」、である。

 読者の皆さん-宗教関係者であるとか、宗教研究者であるとか、あるいはいずれでもないかは問わず-、マインドフルネスでも、他の瞑想でも、自分がこれだと思った瞑想、たまたまご縁のあった瞑想を、まずは始めてみることが大切ではないだろうか(26)。

 心とからだを開き、一瞬一瞬のあるがままをただ深く味わいながら生きること。人間の生にそのほかの意味などあるのだろうか。「スピリチュアリティ」について語ることに何がしかの意味があるのだとすれば、それはまさにこのことに気づくことができるということだと、私は思う(27)。

 

(1)樫尾直樹「スピリチュアリティとは何か―現代文化の霊性的諸相」、樫尾直樹編『文化と霊性』、慶應義塾大学出版会、二〇一二年、二七頁。

(2)この「瞑想」と「臨床」という「スピリチュアリティ」の二類型については、すでに、樫尾直樹「瞑想と臨床-不二の道としてのスピリチュアリティ」、樫尾直樹・本山一博編『地球社会の新しいビジョン-心身・霊性・社会』、国書刊行会、二〇一五年、二七-六七頁において論じた。本論文は、紙幅の関係でこの論文では十分に論じなかった点について考察するものであり、その意味で「瞑想と臨床」論文の続編に当たるものである。

(3)この点の詳細については、樫尾同書、五三-五四頁を参照のこと。

(4)樫尾同書、三五-三六頁。

(5)主要な瞑想の基本的説明は、樫尾同書、六〇-六四頁参照。

(6)リチャード・カッツ『<癒し>のダンス-「変容した意識」のフィールドワーク』、永沢哲・田野尻哲郎・稲葉大輔訳、講談社、二〇一二年( Katz, Richard 1982 Boiling Energy: Community Healing among the Kalahari Kung, Harvard University Press.)参照。

(7)特に、ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え-チベットが伝承した覚醒の道』、永沢哲訳、地湧社、一九九四年( Norbu, Namkhai 1986 Dzogchen : Lo stato di autoperfezione, Casa Editrice Astrolabio-Ubaldini Editore, Roma.)以下の記述はナムカイ・ノルブに多くを負っている。この意味で、本論文は、ナムカイ・ノルブ氏へのオマージュである。

(8)このような瞑想の類型と一般過程についての詳細は、現時点での筆者の瞑想の一般理論を提起した、樫尾前掲書、三六-四二頁、特に四一頁の図3を参照のこと。

(9)ケン・ウィルバー『進化の構造I・II』、松永太郎訳、春秋社、一九九八年(Wilber, Ken 1995 Sex, Ecology, Spirituality, Shambhala Publications,Boston)の第八章を参照。

(10)この点から出発して、現代宗教のスピリチュアリティ的可能性については、樫尾直樹『スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性』、春秋社、二〇一〇年で論じたので参照されたい。

(11)島薗進『精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動』、東京堂出版、一九九六年参照。

(12)この現代的病理については、熊井三治・藤井真一『失感情症の時代を生きる』、朝日新聞社、一九九三年参照。

(13)現代のスピリチュアリティ文化の諸相については、樫尾前掲書(二〇一二年)、一-三二頁参照。

(14)ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』、佐々木基一訳、晶文社、一九九九年( Benjamin,Walter 1936 Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit, Zeitschrift für Sozialforschung. )参照。

(15)ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』、竹原あき子訳、法政大学出版会( Baudrillard, Jean 1981 Simulacres et simulation, éditions Galilée, Paris.)参照。

(16)ミシェル・フーコー『言葉と物』、渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、一九七四年( Foucault, Michel 1966 Les mots et les choses : une archéologie des sciences humaines, Gallimard, Paris. )

(17)ジョン・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』、春木豊訳、北大路書房、二〇〇七年( Kabat-Zinn, Jon 1990 Full Catastrophe Living: Using the Wisdom of Your Body and Mind to Face Stress, Pain, and Illness, Delacorte Press, New York.)参照。

(18)たとえば、サンガ編集部編『グーグルのマインドフルネス革命』、サンガ参照。

(19)この点については、グーグルのマインドフルネス研修のテキストである、Tan, Chade-Meng 2012 Search Inside Yourself, HaperOneを参照。本書は、日本も含め、世界中で広く研修に活用されている。

(20)この点については、樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床心理学』、世織書房、二〇〇三年参照。

(21)セラピー文化における強い自己から弱い自己への傾向的遷移については、小池靖『セラピー文化の社会学-ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』、勁草書房、二〇〇七年を参照。

(22)ノルブ前掲書、二七-三〇頁参照。

(23)こうした「自己否定」は、瞑想と臨床の共通点である。この点については樫尾前掲書(二〇一五年)、五〇-五一頁を参照のこと。

(24)スピリチュアリティを以上のような実践論的視座から捉え語ろうとすることには、宗教研究上きわめて重要な意義がある。筆者は、樫尾直樹「比較瞑想論と宗教間対話―宗教研修の実践論的転回へ」、樫尾直樹・本山一博編『人間に魂はあるか?―本山博の学問と実践』、国書刊行会、二〇一三年、八三―一一八頁において、人文社会科学を席巻したポストモダニズムを批判的に検討することを通して、言語論的転回から実践論的転回への転換とその重要性をすでに指摘したのでぜひ参照されたい。私の次なる課題は、宗教学における本格的な実践論的転回の意義の提起と実現である。

(25)この「教え」という言葉の含意については、ノルブ前掲書参照。

(26)宗教者であれば、自教団では行わない瞑想をやってみることを勧めたい。複数の瞑想行を行うことで初めて自分の実践していることの真の内容が理解されるものだからである。理想的には、すべての瞑想実践者は比較瞑想研究者であることが求められる、と私は考えている。

(27)筆者はこの約二十年の間、「スピリチュアリティ」を鍵概念として研究を継続し、これまで上記の注で参照した著作以外に以下の著作を上梓した。樫尾直樹編『スピリチュアリティを生きる』、せりか書房、二〇〇二年、伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学』、世界思想社、二〇〇四年、樫尾直樹編『アジアのスピリチュアリティ』、勉誠出版、二〇〇六年、樫尾直樹『スピリチュアル・ライフのすすめ』、文藝春秋、二〇一〇年、樫尾直樹・本山一博編『宗教間対話のフロンティア』、国書刊行会、二〇一五年。他人事のようだが、そのほとんどの著作に「スピリチュアリティ」「霊性」という言葉が使われている。これらの語彙の日本語における定着に何がしかの貢献をしてきたという自負はあるが、正直言って、本稿を最後にしたいと思っている。これからはこれまでとは逆に「スピリチュアリティ」という言葉を使わないで、大切なことを語り実践する所存であることをここに明記させていただきたい。

article 5: << L'influence de l'ésotérisme occidental sur les religions japonaises : théosophie, bouddhisme, nouvelles religions >>

Politica Hermetica N. 26 – 2012

L’occident vu d’ailleurs – Acculturation de l’ésotérisme hors d’Europe
Autore/i: AA. VV.
Editore: L’Age d’Homme
pp. 146, Paris (France) Prezzo, pp.15-23.

Naoki KASHIO

Université Keio, Japon

                                               

 

I. Introduction

 

   Je vais traiter de l'influence de l'ésotérisme occidental, en particulier de la théosophie sur les nouvelles religions japonaises, dans les temps modernes et contemporaines au Japon, en tant que des exemples de l'acceptation des pensées étrangers dans les doctrines  des novelles religions.

   Avant tout, je vais résumer la pensée théosophique pour mieux discuter le sujet de cette présentation.

 

 

II. La pensée théosophique : idéologie et cosmologie

 

   La pensée théosophique est si compliquée et si différente aux branches ou sectes de "Société théosophique" que ja vais résumer leurs points communs aux niveau de caractéristique idéologique et de cosmologie.

   La théosophie e caractérise ideologiquement par les six points suivants :

1) l'unification de religions, de sciences et de philosophies,

2) la nature septuple de l'homme en tant que la forme de classification de la corpréité,

3) la constitution septuple de notre planète en tant que la forme de classification du monde,

4) la correspondance entre la corporéité et le monde,

5) la septichotomie : la trichotomie (corps, âme, esprit) en principe dans la classification et

6) la terminologie, par exemple, le terme "physique", "astral", "causal",...etc..

   La cosmologie de la théosophie se caractérise par les cinq points suivants :

1) l'absolute des l'existence de Dieu unique en tant que la Vérité de l'Univers,

2) l'importance de l'individualité de soi et de la volonté de soi,

3) la fin de la connaissance de l'Absolu et de l'unité de soi et de Dieu,

4) l'évolution des esprits de l'homme,

5) la fonction médiatrice de lâme entre le corps et esprits

 

 

III. L'histoire brève de l'acceptation de la théosophie au Japon

 

   Depuis l'ère Meiji, l'importation de la théosophie commença. C'est en 1875 où "Société théosophique" fut fondé par BLAVATSKY. C'est au plus tard en 1886 où un livre de la théosophie fut traduit en japonais d'après Renjô AKAMATSU, leuqel est Henry S.OLCOTT, "A Buddist Catechism According to the Canon of Southern Church". La visite d'OLCOTT au Japon fut en 1889 et 1891.

   On traduisit H.P.BLAVATSKY, "The Key to Theosophy", 1889, et E.H.FUSSEL, "The Facts of the History of Theosophical Movement" en 1910.

   Ensuite, il y a beaucoup de livres théosophiques qui furent traduit en japonais : certains tomes des "Commencements de théosophie" de 18 tomes en 1914, Yogi RAMACHARAKA, "L'élévation du cœur" en 1924, C.W.LEADBEATER, "Man Visible & Invisible", 1912 en 1940, H.S.HARDMAN, "Making Your Self The Master" en 1953, K.Van UHEREN, "Healing and Occult Science" en 1959, et PAWELL, "Theosophy" et beacoup de livres de BLAVATSKY, de LEADBEATER, de BESANT, d'OUSPENSKY...etc. par Ryûô-kaï fondé par Sekizô MIURA aux années 50 et par Édition Tama des années 70-80 jusqu'à présent.

   Ce qui est très intéressant ici, c'est que au début de l'importation de la théosophie, le livre d'OLCOTT fut lu en tant que celui la recherche de la réformation bouddhique. À ce moment-là, de nombreux bouddhistes ont le désir d'un "renouveau religieux" dans l'agrandissement du nationalisme radical, contre le gouvernement qui s'attaque au bouddhisme à travers la mise en place d'un Shinto d'État, et la nouvelle vague du christianisme. C'est Kinza HIRAÏ, le principal de l'école de langue anglaise à Kyoto, 'Oriental Hall', qui invita premièrement OLCOTT au Japon.

   Dans les ruvues bouddhiques, par exemple, "Hanseï-kaï-zasshi" (Réflexion), "Kaïgaï-Bukkyô-jijô" (Affaires etrangères de bouddhisme), etc., il y eut beaucoup d'articles sur la théosophie.

   C'est l'insistance sur l'importance du bouddhisme qui fut importante pour les bouddhistes japonais, non pas la pensée théosophique. Après la critique à la théosophie par Max Müller, les bouddhiste sortirent donc de la fièvre de la théosophie. Ils ne s'intéressèrent pas à la deuxième visit d'OLCOTT.

    D'autre côté, Edward Stanley STEVENSON, Professeur de l'école de la Marine de Yokosuka à côté de Tôkyô, organisa la loge de Point Loma d'autour de 1900. Catherine TINGLEY, la présidente de l'association americaine de la théosophie, visita le Japon en 1905, juste après son entrance de la présidente, et le groupe japonais d'entrepreneurs, de l'autre côté, visita Point Loma.

    Jinzô NARUSE, le fondateur de l'université célèbre des femmes, Université Nihon des femmes et un des membres du salon des chefs de file de la société japonaise, 'Kiitsu-kaï' (Association de retour à la une), appropria la pensée théosophique comme un dispositif transcendant  qui soutient la morale, c'est-à-dire, la resource de la cosmologie spirituelle qui régénére la morale, aux années 1910(1).

   En ce qui concerne le loge d'Adyar de la théosophie au Japon, "le loge international à Tokyô" s'est organisé par James COUSINS, poet et professeur d'anglais à l'Université Keio en 1920 jusqu'à 1924. En le succédant depuis 1924, Daïsetsu SUZUKI, maître de Zen, qui le transmit aux État-Unis et d'autre pays, il fonda le loge Mahâyâna à Kyoto avec sa femme, Beatrice et Nishu UTSUKI qui resta à l'Institut théosophique à Krotona. Et après la deuxième guerre mondiale, c'est Mi ëko TANAKA qui a fondé le nouveau loge d'Adyar en 1971. Maitenant le loge se situe à Kawagutchi, juste au nord de Tôkyô.

   Récemment c'est Manabu KAMIO qui etude et distribue la pensée théosophique pour comprendre l'humanité et contribuer l'éducation au Japon(2).

   En même temps, le hindouisme et le bouddhisme eurent une influence sur la théosophie : la notion de réincarnation, la structure de classification de monde et de la corporéité (par exemple, la septochotomie et l'expression de la série de termes "le corps 〜") (en particulier sous l'influence de la philosophie de vedânda), i'importance du chiffre de sept, la notion du Bouddha,...etc..

   Parmi les nouvelles religions, c'est Ômoto qui s'est intéressé aux courants de la théosophie et du spiritualisme dans la première période de l'acceptation de la pensée étrangère. Donc il y a beaucoup de nouvelles religions qui se sont séparées d'Ômoto : Seïchô-no-ïe, Société de science psychique, Sekaï-kyûseï-kyô, Société japonaise de science psychique, Sekaï-mahikari-bunmeï-kyôdan, Sûkyô-mahikari.

   Masaharu TANIGUCHI, le fondateur de Seïchô-no-ïe, a inventé indépendamment sa doctrine à travers "Nouvelle Pensée" ("New Thought") qui fut influencé par la théosophie aux États-Unis après la séparation d'Ômoto.

   Shinji TAKAHASHI, le fondateur de GLA (God Light Association), a inventé aussi indépendamment sa doctrine sur la base du bouddhisme et de la théosophie, c'est-à-dire du bouddhisme théosophique. Il y a Ryuô-kaï en tant que association théosophique qui était fondée en 1954 au Japon, et qui a traduit dizaine livres théosophiques en japonais comme j'ai montré ci-dessus.

   En ce qui concerne la période de l'acceptation de la théosophie : Ômoto dans la première période, Société de science psychique, Seïchô-no-ïe et Sekaï-kyûseï-kyô dans la deuxième période, Ryuô-kaï, Sekaï-mahikari-bunmeï-kyôdan, Sûkyô-mahikari et GLA dans la troisième période et Kôfuku-no-kagaku et Aum-shinri-kyô dans la quatrième période.

   Ryûhô ÔKAWA, le fondateur de Kôfuku-no-kagaku et Shôkô ASAHARA, celui d'Aum-shinri-kyô ont inventé leurs doctrines sous l'influence des Nouvelles Âges au Japon (qui s'appelle "mouvements et cultures du 'Monde spirituel'"), et de GLA. Après GLA au plus tard, c'est-à-dire presque après les années 70, les relations d'influence devient vague dans l'essor actuel de la culture populaire magico-religieuse et le développement des Nouvelles Âges au Japon(3).

 

 

IV. L'influence de la théosophie sur les nouvelles religions I : le cas de Mahikari

 

   Je vais au présent prendre deux exemples parmi les nouvelles religions japonaises(4) qui étaient influencées directement ou indirectement par la pensée théosophique pour analyser les caractéristiques idéologiques de l'acceptation.

   J'ai choisi Mahikari (Sekaï-mahikari-bunmeï-kyôdan et Sûkyô-mahikari)(5) dans la trosiéme période et Aum-shinri-kyô dans la quatrième période. Parce que la pensée théosophique a une influence sur les doctrines des deux groupes religieux au niveau du cœur de la cosmologie et de la terminologie, et qu'il est plus facile de les discerner que les autres.

   D'abord, On va envisager le cas de Mahikari qu'a fondé Kôtama OKADA en 1959. Le cœur de la doctrine de Mahikari est la purification des esprits par la position des mains ("okiyome") et la transformation de la pensée et du cœur ("sône-tenkan"). Par l'expérience de la purification, par exemple, la guérison des maladies, la solution des problèmes financiers et des conflits, on connait l'existence du "monde spirituel" et de Dieu, et transforme la pensée et le cœur égoïste.

   C'est principalement pareille que "la transformation du cœur" dans les nouvelles religions japonaises. À travers les deux pratiques, les adeptes obeissent à Dieu unique et font ses activités pour créer la nouvelles civilisation sacré.

   OKADA a composé la doctrine concernant la corporéité et le monde sous l'influence de la pensée théosophique. La corporéité et le monde se divise en trois dimensions comme le tableau ci-joint : "le corps physique"("nikutaï"), "le corps astral, psychique"("yûtaï") et "le corps spirituel"("reïtaï"), et "le monde physique"("genkaï"), "le monde astral"("yûkaï") et "le monde spirituel (divin)"("reikaï"). La hiérarchie de la corporéité de Mahikari s'exprime très clairement : "esprit primordial", "pensée (cœur) secondaire" et "corps physique subordonné" ("reïshu-shinjû-taïzoku").

   La forme de l,acceptation de la pensée théosophique se caractérise idéologiquement par les six points suivants :

 

1) Premièrement, au lieu de la dichotomie du spirituel et du physique, le dualisme comme le spiritualisme (qui est la caractéristique typique des doctrines d'Ômoto et de Sekaï-kyûseï-kyô), il y a la trichotomie du physique, du astral et du spirituel.

   Par cette trichotomie, on peut mieux comprendre la distance et la frontière de l'esprit et du corps, les étapes des pratiques par lesquelles on doit arriver jusqu'à la haute dimension.

2) Mais ce qui est différent de la théosophie, c'est l'absence de l'importance de "l'âme" de soi dans la doctrine de Mahikari. Elle manque de la notion du "corps mental" et du "monde mental". Autrement dit, Mahikari exclut la fonction de l'âme et du cœur de la dimension de "l'âme" en choisissant la fonction astral.

   En même temps, Mahikari a donné une nouvelle interprétation du terme "astral" : par exemple, "le monde astral" de Mahikari signifie l'espace où "l'esprit-âme"(6) fait la pratique propre à chacun individulité et d'où il retourne au "monde physique", c'est-à-dire, au monde d'ici-bas.

3) Donc, en conséquence, cette trichotomie n'est que le dualisme du corps et de l'esprit. Fondamentalement les caractéristiques de la religiosité japonaise ne changent pas.

4) L'introduction de la dimension de "l'âme" dans la doctrine ne joue un rôle important que dans l'attirance et la curiosité du spirituel et de l'expérience extraordinaire et dans l'insistence de l'existence du corps spirituel et du monde spirituel, c'est-à-dire, la difficulté d'arriver au monde spirituel où habite le Dieu.

5) En fin, cette introduction peut attirer aux adeptes l'oubli de "l'âme" et du "cœur" malgré que la transformation de la pensée et du cœur soit très importante dans sa doctrine. Sans la notion de la croissance volontaire du "cœur" et de "l'âme", on doit littéralement subordonner son "âme" et "cœur" à l'existence sacré, au Dieu, au fondateur et au successeur.

   On se traite comme le sujet obeissant. De ce fait, l'introduction de la dimension de "l'âme" dans la doctrine joue un rôle dans le forcement de la domination du groupe.

6) Mais la notion d'"esprit-âme" ne se transforme pas dans la doctrine de Mahikari. Parce que cette nouvelle religion a pour fondements le culte des ancêtres sur la base de la notion de réincarnation. Les adeptes ne se situent que dans l'obeissance du "cœur" et de "l'âme", mais aussi la pensée.

 

 

V. L'influence de la théosophie sur les nouvelles religions II : le cas d'Aum-shinri-kyô

 

   Ensuite je vais envisager le cas d'Aum-shinri-kyô qu'a fondé Shôkô ASAHARA effectivement en 1984 (officiellement en tant qu'une personalité religieuse en 1989).

   Le cœur de la doctirne d'Aum-shinri-kyô est d'obtenir, comme le bouddhisme, l'illumination que la vie ne soit que la douleur, et d'ariiver à l'état du nirvâna par les pratiques du Yoga qui ouvrent les "chakras" (sept ou neuf cœurs spirituels du corps) et réveillent le "kundalini" (l'énergie vitale fondamentale qui sort du "mûradâra-chakra"), et par certaines initiations d'ASAHARA pour saluer les autres par les pratiques du "Mâhâyânâ" (Grande Vehicule) et pour préparer à la fin du monde inévitable.

   ASAHARA a composé aussi la doctrine concernant la corporéité et du monde sous l'influence de la pensée théosophique. La corporéité et le monde se divise en trois dimensions comme le tableau ci-joint : "le corps physique", "le corps astral (éthérique)" (supérieur, inférieur) et "le corps causal" (supérieur, moyen, inférieur), ("Égo authentique"), "le monde phénoménal", "le monde astral", "le monde causal" ("le monde de la destruction complète de désirs" y compris).

   La forme de l'acceptation de la pensée théosophique se caractérise idéologiquement par les neuf points suivants :

 

1) Premièrement, ASAHARA utilise directement la série de termes théosophique sans traduction. Ça c'est trés efficace pour imaginer certaines dimensions extraordinaires comme les termes étrangères peuvent créer magico-religieusement des images des espaces transcendants du monde de l'existence présente.

2) Deuxièmement, il y a une correspondance avec les termes bouddhiques, "les cinq corps Dharma (loi)". En ce sens, elle est une contre-importation de l'interprétation théosophique du bouddhisme. L'expression de termes "corps 〜 " sont d'origine bouddhique.

   ASAHARA a introduit le discours de "trois corps du Bouddha" ("Sanjin-setsu") dans sa doctrine : "le corps Dharma" ("nirmâna-kâya") (le corps de réalité fondamentale, de la loi en tant que vérité), "le corps de récompense" ("sambhoga-kâya") (le bouddha reçu comme le résultat de ses pratiques méritants), "le corps correspondant" ("dharma-kâya") (le corps du Bouddha manifesté de correspondre aux besoins différents et aux capacités différentes des êtres vivants).

   "le corps Dharma" correspond au "corps causal", "le corps de récompense" et "le corps correspondant" au "corps astral" inférieur et moyen. "Le corps causal" supérieur correspond au "corps naturel" ("honjô-shin") qu'a créé ASAHARA.

   Finalement, il les ajoute "Égo authentique" dans la plus haute position hiérarchique du corps, lequel signifie aussi "âtman" en tant que le principe d'individualité comme l'entité éternelle et permanante que dans la philosophie de Vedânda.

   Mais ce qui est important, c'est qu'on n'utilise pas très souvent les termes bouddhiques dans l'entrainement de pratiques du Yoga. Principalement, les termes théosophiques comme "causal", "astral" et "éthérique" (on n'a utilisé le terme du second qu'au première période).

3) Le terme "le corps causal" signifie "source de vie" comme la théosophie explique "qu'il est la cause directe de l'état...qui mène au niveau le plus élevé de samâdhi". Au niveau de l'interprétation de ce terme, c'est pareille.

4) Mais son interprétation du "corps astral" est différente de celle de la théosophie comme le cas de Mahikari. Il signifie une corporéité dans la dimension étrangère par laquelle on peut avoir l'expérience extraordinaire : "l'autre dimension" et "le corps à l'autre dimension".

5) Les étapes du monde et de la corpréité se comprend en tant que étape des pratiques. Selon ces étapes, on peut avancer chacune pratique et s'élever du "corps physique" au "corps causal".

   La correspondance de monde et de la corporéité fait comprendre les adeptes la signification des pratiques et leurs positions dans les "mondes". En ce sens, la structure du monde et de la corporéité d'Aum-shinri-kyô est très facile et pratique aux adeptes de les comprendre et les pratiquer.

6) De l'autre côté, l'interprétation du "corps astral" manque aussi l'importance de "l'âme" de soi que Mahikari. Dans la doctrine d'Aum-shinri-kyô, il n'y a pas de notion du "corps mental" et du "monde mental".

7) Donc, en conséquence, cette trichotomie n'est que le dualisme du corps et de l'esprit, comme le spiritualisme.

8) L'introduction des termes "astral" et "causal" dans la doctrine joue rôle important pour ASAHARA et ses adeptes dans l'interprétation des expériences par la pratique.

 Mais ce manque de connaissance assez claire de l'existence de "l'âme" et du "cœur" attire la subordonation de "l'âme" de soi au gourou et à sa force mystique et "capable de tout" en tant que toutes les sources et origines, laquelle est directement et mécaniquement versé dans les corps des adeptes en tant que "data".

9) Donc, la notion d'"esprit-âme" se transforme dans doctrine d'Aum-shinri-kyô. Comme ce groupe n'a pas eu pour fondements le culte des ancêtres, la séparation de la notion d'"esprit-âme" s'est passé.

   "L'âme" se dissout dans la notion du "corps astral" qui est catégorisé dans le terme "l"esprit". Le premier est devenu invisible est le second est devenu l'objet qui est l'origine du gourou et qui sont mécaniquement contrôlées par lui.

   Il n'y a pas d'enseignement de "la transformation du cœur" dans la doctrine d'Aum-shinri-kyô, mais seulement "la transformation de la conscience".

 

VI. Conclusion

 

   C'était l'analyse de la forme de l'acceptation de la théosophie de Mahikari et d'Aum-shinri-kyô.

   Les caractéristiques communes entre les deux sont au nombre de cinq :

 

1) la simplification et la formalisation de la terminologie, l'utilisation de termes appropriés

2) la compréhensibilité de la dimension psychique, en conséquence l'insistence sur la dimension spirituelle

3) la dévalorisation de la fonction de l'âme, de la sensibilité et de la "volonté de soi"

4) l'insistence sur la subordonation de l'âme (l'homme) à lêtre transcendant

5) en conséquence, insistence trop forte du caractère absolu de l'être transcendant

 

   Il n'y a qu'une point de différence entre Mahikari et Aum-shinri-kyô. C'est la différence de la transformation de la notion d'"esprit-âme". Mais ce point est très important lors de penser des erruers et  d'Aum-shinri-kyô.

 

 

NOTE

  1. Sur cette histoire brève jusqu’ici, voir YOSHINAGA2007 et 2010.

  2. Manabu KAMIO est le meilleur théosophe au Japon. Sur sa compréhension de la théosophie comme le fondement pour comprendre l’humanité, voir KAMIO2006.

  3. Sur la Nouvelle Âge au Japon, voir HAGA et KISALA1995, et KASHIO2000.

  4. Sur l’état des lieux de la situation religieuse au Japon, en particulier, des nouvelles religions et des nouvelles voies spirituelles, voir KASHIO2000.

  5. Sur la pratique et la pensée de Mahikari, voir KASHIO2005.

  6. Le terme d'"esprit-âme" ("reïkon") dans le Japon traditionnel se défint par : il s'agit d'une "entité spirituelle, généralement invisible, qui s'échappe du corps après la mort et qui peut, soit séjourner dans la montagne ou dans l'au-delà des mers, soit flotter dans les airs ou près de la terre si elle n'est pas suffisamment "consolé" (par des rites, des prières et des offrandes). Le terme de "tama" se définit par "l'âme du défunt, l'âme des ancêtres, l'âme divine" et "principe spirituel de l'être humain", qui souvent s'appèle au sens large du terme "kokoro", le cœur. Donc le domaine de signification de "tama" est plus large que celui de "reïkon". Le terme de "tamashii" se définit par "l'âme d'un homme et de la mort d'un homme" et "principe de la vie psychique et affective", qui souvent s'appèle aussi au sens large du terme "kokoro", le cœur. Ensuite, le terme de "reï" se définit par "le terme très large qui comprend les deux significations de "reïkon" et "tama". Donc ici, je veux utiliser le mot "esprit-âme" à la place de terme "reïkon", le mot "âme" à la place de terme "tamashii" et le mot "cœur" à la place de terme "kokoro".

 

BIBLIOGRAPHIE

HAGA Manabu, KISALA Robert J. (eds). 1995 << The New Age in Japan >>, no spécial de la revue Japanese Journal of Religious Studies, vol.22, no 3-4, automne 1995.

KAMIO Manabu 2006 Ningen-rikaï no Kiso toshiteno Shinchigaku, Cosmos Library, Tôkyô. (Théosophie comme le fondement pour comprendre l’humanité, Cosmos Library, Tôkyô.)

KASHIO Naoki 2005 << Légitimation de la pratique et de la pensée des nouvelles religions au Japon : l'exemple de Sûkyô-Mahikari >>, coordonné par Anne BOUCHY, Guillaume CARRÉ et François LACHAUD, Légitimités, légitimations : la construction de l'autorité au Japon, Études thématiques 16, EFEO, Paris : pp.183-197.

KASHIO Naoki (avec Jean-Pierre BERTHON) 2000 << Les nouvelles voies spirituelles au Japon : état des lieux et mutations de la religiosité >>, Archieves de sciences sociales des religions, 109 (janvier-mars), pp.67-85.

YOSHINAGA Shin'ichi 2007 << Meiji-ki Nihon no Chishikijin to Shinchigaku >>, Kunimitsu KAWAMURA (ed.) Hyôi no Kindaï to Politics, Seikyû-sha, Tôkyô : pp.115-145. (<< Les intellectuels et la théosophie au Japon de l'ère Meiji >>, Kunimitsu KAWAMURA (ed). La modernité de possession et la politique, Seikyû-sha, Tôkyô : pp.115-145.)

                      2010 << Kindai Nihon niokeru Shinchigaku-shisô no Rekishi >>, Shûkyôgaku Kenkû, Vol.LXXXIV-2, Nihon Shûkyô Gakkaï, pp.375-397. (<< The History of Theosophical Ideas in Japan in the Modern Age >>, Journal of Religious Studies, Vol.LXXXIV-2, Japanese Association for Religious Studies, pp.375-397.)

 

 

 

 

 

article 6: LÉGITIMATION DE LA PRATIQUE ET DE LA PENSÉE DES NOUVELLES RELIGIONS AU JAPON :

L’EXEMPLE DE SÛKYÔ-MAHIKARI

Bouchy, Anne, Carré, Guillaume et Lachaud, François (coordonné),

Légitimités, légitimations : La construction de l'autorité au Japon,

Études thématiques 16, École française d'Extrême-Orient, 2005, pp.183-197.

 

KASHIO Naoki

 

Préambule.

Sans poser le principe d’une "totalité" fictive, nous ne pouvons discourir sur « le monde », « la société », « l’histoire ». Et ce sont les points d’appui sur lesquels repose cette évidence d’une totalité que nous avons appelé « concept », « vie » ou « Dieu ». Pour ma part, je définirai donc ici la « légitimation » comme le travail de l’esprit visant à soutenir cette conception d’une totalité et « légitimité » le produit de ce travail.

Mettre en question la réalité d’un au-delà dont ne veulent pas entendre parler ceux pour qui « seul ce monde existe », tel n’est pas mon propos. Ce qui m’intéresse plutôt ici, c’est le désir qui pousse à imaginer et à créer tout un univers doté d'une « histoire », jouant sur l’espace et le temps d’un au-delà présenté comme évident et transcendant, ainsi que le processus de légitimation de cette entreprise.

Le présent article prendra pour exemple le cas de Sûkyô-Mahikari ( « la véritable lumière de la religion suprême »), une des « nouvelles religions » du Japon moderne. On désigne par ce terme de « nouvelles religions » des mouvements apparus vers la fin du shogunat et l’époque de la restauration de Meiji. Celles-ci se constituèrent en sectes indépendantes, distinctes des religions déjà établies, comme le Bouddhisme ou le Shintô, mais s’appuyaient essentiellement sur des milieux populaires qu’elles entendaient secourir de leurs difficultés présentes, en proposant des remèdes à la misère ou à la maladie. Cette « nouvelle religion » me semble un objet d’étude particulièrement approprié pour les objectifs énoncés plus haut, puisqu’en effet, en usant de l’analogie ou du jeu de mot, ou encore en fabriquant une histoire fictive, elle légitime son caractère de religion universelle à travers l’affirmation d’un discours supra-religieux ou du dépassement des religions et par le nippocentrisme.

 

1 Origines et particularités de Sûkyô-Mahikari.

Avant d’entrer dans le vif du sujet, je ferai une brève mise au point sur la pensée et les pratiques de Sûkyô-Mahikari[1].

Sûkyô-Mahikari est née en 1978 d’une scission au sein de la Sekai-Mahikari bunmei-kyôdan ( « l’association religieuse pour la civilisation mondiale de la véritable illumination ») consécutive aux luttes de succession qui suivirent la disparition du fondateur de cette secte, Okada Yoshikazu (alias Okada Kôtama) (1901-1974) ; celui-ci avait établi son mouvement en 1959, mais était à l’origine un cadre de la Sekai-kyûsei-kyô (« la religion du salut mondial »), elle-même dérivant de la secte Ômoto apparue à l’ère Meiji. Mahikari considère aussi Okada Yoshikazu comme son premier patriarche, le second et actuel chef de la secte étant sa fille adoptive, Okada Koko (alias Okada Keishu). Après la scission, 80% environ des membres de la Sekai-Mahikari bunmei-kyôdan et la quasi-totalité de ceux habitant hors du Japon rallièrent Sûkyô-Mahikari. De ce fait, les membres de Sûkyô-Mahikari dont l’adhésion à la secte remonte à une période antérieure à la scission ne perçoivent cet évènement que comme un simple changement de nom.

Cette secte fait de la pratique de rites de purification consistant dans l’imposition des mains, appelée « l’Art de Mahikari » ou « purification », et de la mise en œuvre d’un renouveau spirituel qualifié de « changement de pensée », le cœur de son enseignement et de sa mise en pratique. Sa cosmologie se fonde sur le culte du fondateur et des conceptions de l’âme et du monde spirituel basées sur la réincarnation, des discours apocalyptiques et une pensée nippocentrée. « L’Art de Mahikari », par l’imposition des mains sur certaines parties du corps, en purifiant ce corps et l’âme de ses souillures (ou encore de ses « toxines »), permet de ressentir réellement la présence de la Divinité, et cette pratique vise à modifier le comportement du pratiquant pour le rendre conforme à une existence selon la volonté divine. La secte revendique à peu près 500 000 fidèles au Japon, et leur nombre dans les autres pays est évalué au minimum à plus de 100 000 personnes[2].

On devient fidèle de la secte en recevant un pendentif appelé « Omitama » après trois jours de stages et de conférences. Ceux-ci constituent le « stage de degré initial ». On peut accéder aux stages des degrés « moyen » et « supérieur » à mesure de l’approfondissement de la foi et de l'implication dans des activités au sein de la secte, ainsi que du nombre de nouveaux fidèles que l’on y a amenés. Cette initiation en trois stades est censée permettre l’approfondissement de la doctrine et de sa pratique par le fidèle et renforcer son sentiment d’appartenance au mouvement.

 

2 L’obtention de la légitimité

Après cet exposé liminaire sur Sûkyô-Mahikari (que je désignerai désormais par le terme de Mahikari), intéressons-nous à présent à son désir d'élaborer un univers qui lui soit propre et à celui de fabriquer une histoire fictive, ainsi qu’au processus d’obtention de la légitimité.

Tout d’abord, voyons comment la secte interprète sa propre pensée et sa mise en pratique, en vue d'établir la légitimité de son caractère universel. On peut distinguer deux aspects principaux. Le premier concerne la légitimation de l’universalité de ses pratiques, et le second l’universalité de son enseignement. Dans les deux cas, ces interprétations s’appuient à la fois sur la manipulation du passé historique et sur la création d’un passé mythifié, en liaison avec une idéologie du dépassement ou de l’unification des religions.

 

2-1 « L’Art de Mahikari ».

Concrètement, le premier argument a trait à l’universalité de « l’Art de Mahikari ». Selon cette secte, la révélation accordée en 1959 par la divinité au fondateur du mouvement, Okada Yoshikazu, fait de celui-ci l’ultime sauveur du monde[3]. Certes, dans l’histoire de l’humanité Dieu avait déjà envoyé des sauveurs comme Jésus ou Mahomet ; cependant, il ne leur avait pas communiqué l’instrument suprême du salut de l’humanité. Mais il le transmit à Okada, et ce moyen imparable n'est autre que « l’Art de Mahikari ». Dans le stage initial, on insiste donc sur le fait que le Bouddha comme Jésus guérirent des malades en pratiquant l’imposition des mains : toutes choses attestées dans le cas de Jésus, affirme-t-on, par les évangiles ou les reliefs sculptés des églises. Les religions du monde entier et leurs fondateurs sont ainsi mis à contribution pour démontrer la supériorité de Mahikari et d’Okada, et dans le même temps Mahikari légitime sa propre existence de jeune mouvement religieux en profitant du prestige accumulé dans l'histoire par ces religions établies.

 

2-2 « Les cinq voies de l’alliance suprême » .

Le second point concerne la légitimation de la doctrine des « cinq voies de la l’alliance suprême », c’est-à-dire de l’idéologie d’unité des religions. Le terme « sûkyô » de Sûkyô Mahikari signifie "supra-religion" ou "religion supérieure". Comme le symbolise l’emploi de cette expression, Mahikari se considère comme une religion transcendant toutes les autres et trônant au-dessus d’elles. C’est-à-dire que de nombreux chemins permettent d’arriver au sommet spirituel, mais que Mahikari est ce sommet auquel aboutissent tous les chemins. Pour légitimer cette représentation d’elle-même, Mahikari use d’un type particulier de discours, à savoir les jeux de mots et une histoire apocryphe. On cherche ainsi à légitimer les prétentions universalistes de cette secte, en s'appuyant sur une armature nippocentrique qui exalte son caractère historique primordial ainsi que sa centralité spatiale et générative dans le domaine religieux, centralité conférée l'apparition de Mahikari au Japon.

 

2-2-1 Les jeux de mots

Intéressons-nous pour commencer aux jeux de mots[4]. L’une des expressions du nippocentrisme réside dans la croyance que la langue japonaise est à la source de tout ou encore qu'elle constitue la langue originelle. De ce point de vue nippocentrique, pratiquement tout et n’importe quoi est utilisable, dans une perspective historique, comme ressources culturelles servant à la légitimation du système impérial. Mahikari renferme également une forte idéologie pro-impériale et la manifeste de diverses manières. Par exemple en rapprochant le nom de la civilisation mésopotamienne de « Sumer » du terme de « Sumera » qui désigne l’Empereur en japonais ancien, Mahikari trouve la preuve du fait que le Japon possédait la plus ancienne culture écrite de l’humanité. Pour la plupart des gens, un tel discours serait considéré comme irrationnel. Toutefois en raison même de leur irrationalité, des arguments de ce genre, par définition impossibles à établir par une démarche historique ou archéologique, trouvent un certain écho parmi les individus ayant fait l’expérience d'un secours obtenu grâce à l'imposition des mains. Dans un autre registre, en transcrivant phonétiquement avec des caractères chinois le titre de la célèbre chanson de noël « jingle bells », on en tire le sens suivant : « la cloche qui annonce la venue du Dieu ». La secte cherche ainsi à affirmer que même les usages populaires occidentaux proviennent du Japon. Par railleurs le mot « pyramide » est transcrit avec des caractères chinois signifiant « le sanctuaire où la divinité se rend en volant », et pour quitter les jeux de mots, Mahikari a disposé dans son sanctuaire des figures du serpent à plumes Quetzalcoatl[5], un dieu du panthéon aztèque dont la représentation évoque un dragon : elle déclare ainsi que toutes les civilisations anciennes ont leur source au Japon.

 

2-2-2 l’histoire apocryphe

Voyons à présent ce qu’il en est de l’histoire apocryphe[6]. La place exceptionnelle du Japon, origine et centre du monde qui a vu la naissance de Mahikari, et que les jeux de mots manifestent par le vocabulaire même, est encore renforcée par des « preuves historiques » fictives. Les histoires apocryphes constituent pour le Japon des alternatives à l’histoire « officielle » légitimant le culte impérial ; en affirmant qu’avant la lignée impériale existant déjà une longue histoire de la divinité et du souverain, elles tendent à relativiser le système impérial, mais proposent aussi dans le même temps une nouvelle lecture de ce dernier. Selon les recherches des historiens, un grand nombre de ces histoires fictives sont des créations remontant à la fin du shogunat et au début de Meiji. Il va sans dire que pour ceux qui en font usage, il s’agit là non pas d’« apocryphes » mais « d’histoire véritable ». On peut citer comme exemple « les écrits de Kukami », « les écrits du Fuji » ou encore « les écrits de Takeuchi »[7] sur lesquels Okada Yoshikazu s’est appuyé pour l’enseignement de Mahikari. Dans cette dernière secte, c’est par la transmission d'un savoir secret sur l’histoire et le monde recelé par ces documents, que s’accomplit l’initiation finale des fidèles parvenus au stade des stages supérieurs.

« Les écrits de Takeuchi » étaient détenus par le fondateur de la secte Kôso Kôtai Jingû Amatsu-kyô, Takeuchi Kiyomaro (1874-1965), et on prétends qu’ils avaient été transmis de génération en génération au sein de la maison Takeuchi, établie dans l’actuel département de Toyama situé dans la région centrale de l’île de Honshû. Ces documents qui furent pour la première fois ouverts au public dans les années 1920 sont rédigés dans une écriture mystérieuse, les « caractères divins »[8] : ils professent qu’avant même l’histoire ancienne « officielle » et le premier Empereur mentionné dans les « Chroniques du Japon » (Nihon-shoki)[9], Jinmu-Tennô, existait une lignée impériale continue sur des centaines de générations, et que, sous le règne de ces souverains, le Japon engendra toutes les autres nations de la terre. Par exemple le monde est partagé entre en cinq races humaines : les jaunes pour l’Asie Orientale (Japon compris), les bleus pour le Sud-Est asiatique, les rouges pour l’Afrique, les noirs pour l’Inde et les blancs pour l’Europe ; mais l’ancêtre commun de ces « hommes des cinq couleurs » est la maison impériale du Japon[10]. De ce fait, les « hommes des cinq couleurs » circulaient continuellement au sein du Japon, et ce faisant, leurs sangs se sont peu à peu mêlés. Ainsi l’ancêtre des Européens serait « l’aïeule des hommes rouges Yoirohaadamuibu » (=Europa-Adam-Eve), celui du continent américain « le roi des hommes rouges Hiukeebirosubosuton » (= Boston) et ses descendants se seraient appelés respectivement « le roi Nidoyuiyoikuru » (= New-York) et « le roi Yanfuran’isuko » (= San-Fransisco)[11].

La présence de noms comme « Boston », « New-York » ou « San-Francisco » qui n’ont naturellement aucune raison d’avoir existé il y a des milliers d’années, suffit à démontrer le caractère fictif, à la limite parodique, de cette histoire, et cette imposture avait été dénoncée très tôt par l’historien Kanô Kôkichi (1865-1942)[12]. Malgré cela, ce type de nippocentrisme, basé sur un extrémisme pro-impérial dépassant même les conceptions des liens entre l’histoire du Japon et sa dynastie qui avaient officiellement cours à l’époque, et l’ethnocentrisme, plaçant les Japonais au sommet d’une humanité composée de cinq races égales entre elles, reçurent le soutien de militaires et d’amateurs d’histoire secrète et servirent à légitimer les entreprises agressives du Japon. Quant à Okada, entré dans la garde impériale, après avoir été diplômé de l’école des officiers de l’armée de terre en 1922, il dut ressentir dès cette époque un profond intérêt pour ces histoires fictives[13]. Certes il fut aussi un cadre de la secte Sekai-kyûseikyô, mais on raconte qu’il fréquentait également le siège de la secte Kôso Kôtai Jingû Amatsu-kyô et se passionnait pour les « Écrits de Takeuchi ».

La pensée nippocentrique des « Écrits de Takeuchi » qui font de l’archipel et de l’Empereur l’origine des temps et le centre de l’espace, de même que les belles histoires expliquant que le Bouddha, Moïse, le Christ, Mahomet, tous les fondateurs de religions de la terre, étaient des descendants de l’Empereur, qui ont transmis « l’Histoire » avec un grand H aux populations du monde grâce à l’expérience acquise par leurs études au Japon[14], tout cela dut exercer un attrait puissant sur un Okada qui se prétendait l’ultime sauveur envoyé par la divinité au Japon, centre et origine du monde. En tout cas il dut le juger adéquat pour légitimer les prétentions d’une religion japonaise comme Mahikari au statut de « religion suprême » au sommet de toutes les autres. Ou peut-être peut-on penser au contraire que c’est parce qu’Okada nourrissait à l’origine un grand intérêt pour ces représentations fictives de l’histoire mondiale, qu’il se les appropria comme armature idéologique pour sa pratique de l’imposition des mains.

 

2-3 Récapitulation

Ainsi, sur un fonds culturel de nippocentrisme légitimé à grands renforts d’apocryphes et de calembours, Mahikari assoit ses prétentions au statut de super-religion (ou "religion suprême"), originelle et universelle accomplissant et parachevant toutes les autres croyances. Et d’autre part, en faisant de « l’Art de Mahikari » la manifestation pratique de ces prétentions, elle se légitime par la dimension historique de l’orthodoxie et de l’orthopraxie des autres religions et de leurs fondateurs. Enfin, le « miracle » que constitue « l’efficacité » que les fidèles attribuent à « l’Art de Mahikari », et que par ailleurs légitiment les religions de la terre entière, légitime donc à son tour les discours nippocentriques et ceux bâtis autour de la secte ainsi que les représentations du monde basées sur des histoires apocryphes. De ce fait, comme un serpent qui se mord la queue, pseudo-histoire et historicité des autres religions se soutiennent mutuellement pour légitimer les pratiques et l’enseignement de Mahikari.

 

3 Une légitimité par rapport à quoi, qui s’adresse à qui, et dans quel but ?

Nous venons de voir concrètement le mode d’obtention de la légitimité par Mahikari.  Intéressons-nous à présent à la place qu’elle occupe dans l’histoire des religions au Japon, et aux contextes socioculturel et historique.

 

3-1 Mahikari et les autres religions du Japon

La propension de Mahikari à se légitimer en usant d’une représentation fictive de l’histoire mondiale se retrouve dans quelques mouvements religieux comme Ômoto (en particulier les conceptions de Deguchi Onizaburô) ou Kôso Kôtai Jingû Amatsu-kyô d’où sont sortis « les écrits de Takeuchi » ou bien encore Aum Shinrikyô, mais demeure très rare dans les nouvelles religions japonaises comme dans les religions établies émanant du bouddhisme ou du shintô. Des « nouvelles religions » déjà anciennes issues de la mouvance shintô comme Tenrikyô ou Kurozumikyô, possèdent certes leurs propres cosmogonies et cosmologies, mais celles-ci se fondent sur la révélation entrevue par leurs fondateurs et n’utilisent pas de pseudo documents historiques. Quant à la cosmologie des plus importantes d’entre les nouvelles religions engendrées par le bouddhisme, c’est-à-dire celles dérivants des mouvements se réclamant de Nichiren comme la Sôka Gakkai, la Risshô Kôseikai ou la Reiyûkai, elle repose sur le Soutra du Lotus. Il en va de même pour les diverses sectes bouddhiques de fondation plus ancienne, et le shintô enseigné dans les sanctuaires se situe en opposition frontale avec ces histoires apocryphes puisqu’il maintient sa référence aux histoires officielles de l’Antiquité.

Assurément, ces histoires officielles recèlent elles aussi des références situées hors de ce monde et qui se rattachent à un univers mythique. Et pour ce qui est des cosmogonies des autres « nouvelles religions », elles possèdent elles aussi leurs propres mondes mythiques : formellement, il pourrait donc sembler que tout ceci relève des mêmes tendances que l’usage de l’histoire fictive par Mahikari. Cependant histoire apocryphe et cosmologie diffèrent grandement si l’on se place du point de vue de l’assise de leurs assertions. De nos jours au Japon, les ouvrages qui se font les porte-parole de telles histoires fictives sont objets de risée, comme le montre bien leur sobriquet de « tondemohon », (« les livres n’importe quoi »).

Pourtant, cette prétention à se légitimer en arguant de la détention par la secte d'enseignements et de pratiques transcendant les autres croyances, possède bien des points communs avec les nouvelles religions apparues dans les années 70-80, même si ces dernières ne cherchent plus à libérer les fidèles de difficultés bien réelles, comme la misère ou la maladie, mais plutôt à évacuer au moyen d'opérations psychiques, la vacuité spirituelle engendrée par la prospérité. On peut citer l’exemple de Kôfuku no Kagaku ( » la science du bonheur ») liée au bouddhisme, ou dans le registre shintô, celui de World Mate. A l’époque actuelle, savoir et informations sur les religions du monde entier sont devenus beaucoup plus facile à se procurer. Cette situation, tout relativisant jusqu'à un certain point les prétentions des sectes, en sens inverse, leur permet de baser leur enseignement et leurs pratiques sur un montage et une synthèse de ces divers savoirs et informations sur les autres religions, et rend ainsi possible pour chacune d'entre elles l’affirmation de la supériorité de son propre mouvement. Il semblerait donc que Mahikari et sa matrice Ômoto ont été des précurseurs de cette tendance.

 

 

3-2 Okada Yoshikazu et l’Empereur.

J’aimerais à présent me pencher sur l’arrière-plan socio-historique et culturel de la légitimation de Mahikari en me concentrant sur une des particularités de cette secte : l’histoire apocryphe comme fondement de la conception du monde.

Intéressons d’abord aux rapports qui unissent le nippocentrisme et le tennôcentrisme[15] propres à cette histoire fictive, et le “mahikari-centrisme” qu’ils légitiment. A ce propos, une question toute simple vient d’abord à l’esprit : quel lien peut-il bien exister entre M. Okada, ultime sauveur du monde, et l’Empereur, centre de ce même monde et de l’histoire ? De nombreux points restent encore à éclaircir et par conséquent je ne pourrai discuter ici de ce problème. Toutefois l’idéologie impériale est particulièrement intense dans Mahikari : car non seulement la secte admet, cela va de soi, le caractère sacré et transcendant du Tennô, mais il s’en trouve aussi en son sein pour prétendre que l’Empereur est un fidèle de la secte que seules les circonstances présentes empêchent de faire son “coming-out”.

Si l’on affirmait qu’Okada Yoshikazu et sa fille adoptive Okada Koko sont eux-mêmes des Tennô, la contradiction entre maison Okada et maison impériale pourrait être facilement surmontée ; toutefois cela semble impossible. Mais c’est justement dans cette impossibilité que gît la raison profonde qui contraint Mahikari à faire usage d’un discours supra-religieux et d’une histoire apocryphe. La secte adopte en effet une position acrobatique qui consiste à faire de cette pseudo-histoire universelle exaltant le système impérial, un mode de protestation contre une nation justement bâtie autour du système impérial, c’est-à-dire le Japon contemporain. Cette attitude n’est d’ailleurs pas une exclusivité de Mahikari : on peut également l’observer dans d’autres mouvements religieux comme Ômoto ou une partie de ceux relevants de la mouvance Nichiren.

Le Tennô de l’époque d’Edo légitimait le pouvoir guerrier par une forme d’orthodoxie lignagière proclamant la continuité ininterrompue de la maison impériale. Puis à la suite de la restauration de Meiji durant la seconde moitié du XIXe siècle, le Tennô vit son statut changer : il devenait une institution qui, tout en détenant la souveraineté nationale, octroyait une légitimité à une nation moderne et de fait, laïcisée. Mais pour les partisans du nippocentrisme qui fondaient leurs idées sur ce système impérial, ce changement de statut demeurait une demi-mesure : puisque l’Empereur était un « Dieu vivant », on ne pouvait se contenter d’en faire la source de légitimité d’un pouvoir séculier : il fallait plutôt s’appuyer sur son caractère sacré pour transformer la nation elle-même en nation divine et en théocratie.

La représentation du Tennô qui en résulte est donc très ambivalente. Car si en surface, l’empereur est conçu comme un dispositif faisant fonctionner une nation laïcisée, il devient, en profondeur le véritable souverain appelé à gouverner un jour une nation divinisée. C’est là que prennent leur source ces mouvements extrémistes, pro-impériaux ou ultra-nationalistes, qui prétendent abattre le shintô d’état pour mener à bien le dessein véritable du Tennô. Et selon moi, c’est là aussi qu’il nous faut chercher, comme pour les fabricants d’apocryphes et autres ultra-droitistes en tout genre, l’origine de ce désir d'Okada Yoshikazu de réécrire l’histoire.

 

3-3 Arrière-plan socioculturel et historique.

Dans le contexte de multiplication des religions lors de l’après-guerre, Okada s’institua récipiendaire des vérités oubliées d’Ômoto ou encore initiateur d’un retour vers un enseignement des patriarches, et en usant de ressources des calembours et d’une histoire apocryphe, il proclama la fin de la Sekai kyûsei-kyô et s’attacha à imprimer une marque originale à Mahikari. En réalité, il chercha, à travers l’affirmation de ses différences et de ses particularismes, à établir une assise qui permettrait à son mouvement d’acquérir une dimension universaliste.

De plus, on peut penser qu’en tant que religion novice parmi les mouvements prêchant l’imposition des mains, il importait pour Mahikari, afin de se faire accepter des foules, de montrer combien était universelle cette cérémonie purificatrice qu’elle mettait au centre de sa pratique au point de l’appeler « l’Art de Mahikari ». Evidemment, il ne devait pas y avoir parmi les fidèles de base tant d’individus susceptibles d’avoir une connaissance quelconque des autres mouvements religieux prônant l’imposition des mains, mais il n’en était pas moins nécessaire de proposer tout à la fois une spécificité et une universalité de la pensée/pratique de la secte. En d’autres termes, convaincre les foules que Mahikari était une religion qui unifiait, subsumait et finalement dépassait les religions universelles comme le christianisme, le bouddhisme et l’islam, constituait un problème d’une extrême importance pour le succès de sa propagation.

Si l’on se remet dans le contexte de l’histoire religieuse et sociale de l’après-Meiji, on peut voir dans la multiplication de ces "nouvelles religions" une tentative pour surmonter une situation socioculturelle d’aliénation, marquée par une réaction face au christianisme et à la civilisation occidentale. Et cette réaction se manifesta par une tentative de retourner un mouvement allant du monde vers le Japon en un autre émanant du Japon en direction du reste du monde (tout ceci se nourrissant des discours sur la supériorité du peuple japonais comme de la théorie de la communauté d’origine des Juifs et des Japonais de Sakai Katsutoki ou celle du Sumer japonais de Mishima Atsuo)[16].

 

3-4 La reconstruction d’une conception du monde par la pseudo-histoire.

Parvenu à ce point de mon exposé il me paraît extrêmement intéressant de souligner les liens entre la légitimité reposant sur “l’Art de Mahikari” et celle qui s’appuie sur une histoire apocryphe. Cette relation forme un parallèle avec les liens qui relient la maison Okada et la maison impériale. Si Mahikari avait simplement visé l’accroissement de sa puissance, sans doute alors la seule “efficacité” de “l’Art de Mahikari” et la légitimité qu'il confère, auraient-ils suffi. Et d’ailleurs lors de la phase d’expansion de la secte dans les années 60-80, l’augmentation du nombre de fidèles ne se nourrissait pas tant d’une vision du monde construite sur une histoire apocryphe, que de la guérison des maladies grâce à l’imposition des mains.

Si l’on montrait une foi suffisamment profonde et une pratique assidue, on pouvait toujours être admis à suivre les stages supérieurs d’initiation, mais ce n’est pas pour autant que les “vérités” bouleversantes de la pseudo-histoire du monde qui y étaient révélées contribuèrent à l’accroissement du nombre des croyants. Il ne fait aucun doute que c’est la doctrine d’unification des cultes par une super-religion, de concert avec la légitimation par “l’Art de Mahikari”, qui forma la base essentielle de l’affirmation d’une universalité et d’une légitimité de la secte. Mais alors quelle nécessité y avait-il d’user en plus de telles constructions pseudo-historiques ?

Un discours fondant une explication et une interprétation “logiques” d’un “univers”. Un discours fondant une domination de cet univers. On peut considérer des mouvements remontant au XIX siècle tels que les Etudes Nationales (kokugaku) ou les nouvelles religions, comme des tentatives entreprises par des japonais vivant à cette époque de reconstruire une image évidente d’un univers qui se disloquait. Sans doute Okada Yoshikazu, comme je l’ai déjà signalé en 3-2, se trouva lui aussi confronté au double effondrement de son monde et de son environnement, c’est-à-dire à la fois l’ébranlement du fondement de ses certitudes spirituelles sur le monde qu’entraînaient la négation ou la dégradation du caractère sacré de l’empereur et la transformation de la société par le capitalisme, ainsi que la destruction de l’environnement par la pollution. Ces phénomènes le poussèrent alors à reconstruire une vision du monde centrée sur les deux éléments qui lui semblaient les plus évidents : le système impérial et le nippocentrisme.

 

4 Conclusion : Examen critique du processus de légitimation de Mahikari.

Jusqu’ici nous nous sommes intéressés au mode d’obtention de la légitimité par Mahikari, à ses objectifs idéologiques et à son arrière-plan socioculturel. Je souhaiterais pour finir proposer quelques réflexions sur le processus de légitimation des prétentions à l’universalité tel qu’on peut l’observer dans Mahikari.

 

4-1 Le processus de légitimation.

Que ce soit par l’affirmation de la suprématie de “l’Art de Mahikari” en comparaison avec les pratiques de guérison des fondateurs des autres religions du monde, ou encore par les conceptions nippocentriques de son statut de super-religion qui fait bon usage du jeu de mot et de l’histoire fictive, Mahikari, en établissant des références si éloignées dans le temps et l’espace qu'elles en deviennent invérifiables, paraît relativiser sa propre place. Mais comme dans le même temps, la secte incorpore le prestige et la puissance de ces références, elle se place dans une position transcendante et devient elle-même la référence absolue. C’est là le processus même qui engendre la légitimation des prétentions à l’universalité de la pensée et des pratiques de Mahikari. Tout en se référant à un au-delà du monde réel, grâce à la création d’un univers et d’une histoire, elle rebâtit ainsi une forme de totalité. Comme je l’ai déjà expliqué auparavant, tout ceci n’est pas encore proclamé publiquement, mais en bonne logique, le rapport d’équivalence Empereur/Japon = Okada/Mahikari= Dieu/Univers boucle le processus de légitimation de la pensée et de la pratique de la secte. Quoique tout cela reste assez vague, je pense que dans le cas de Mahikari, gourou comme fidèles ont tous plus ou moins ce schéma en commun.

 

4-2 Une position critique vis-à-vis de l’ethnocentrisme et de la légitimité de l’Etat

De ce qui a été dit précédemment, on peut définir Mahikari comme une sorte de nippo-fondamentalisme. De ce point de vue, on peut parler d’un ethnocentrisme couplé à une doctrine ramenant tout à l’ordre sectaire. De ce fait, la revendication de droits liés au caractère sacré et à l’authenticité de l’ordre prôné par la secte se conjugue avec le radicalisme pro-impérial et l’ultra-nationalisme dont j'ai parlé tout à l’heure. Comme si se manifestait ainsi le désir profond mais inassouvi d’Okada de devenir un Tennô (un Tennô « apocryphe » ?!), la doctrine en vient par conséquent, sous une forme ambivalente, à critiquer la légitimité de l’Etat et du système impérial comme celle des assertions de l’histoire officielle qui en forment le fondement, jette le doute sur leur caractère d’évidence et finalement révèle leur côté fabriqué. Or, plus on cherche à dissimuler au public ce désir de “tuer le père”, plus s’accroît l’obsession du secret au sein de la secte, et alors la probabilité de voir celle-ci se couper de l’extérieur augmente d’autant. Mahikari n’est pas la secte Aum, mais je pense cependant qu’à la pointe extrême de ce processus de légitimation, on retrouve les dispositions intellectuelles qui ont nourri la série de crimes d’Aum-shinrikyô[17]. Pour autant, on saurait pas se contenter de dire d’un tel processus de légitimation de l’universalisme de la secte, emmené par un ethnocentrisme, en l’espèce nippo-centré, et adossé à une histoire apocryphe, qu’il s’agit là d’une spécificité japonaise.

 

4-3 Le « flatland » et sa demande de réflexibilité.

Le processus de légitimation de Mahikari que nous venons de décrire doit être tout à la fois examiné par rapport à la situation socioculturelle du Japon de l’avant et de l’après-guerre, mais aussi être compris en le resituant dans le contexte général de la société actuelle. Celle-ci peut-être appelée de bien des manières, société capitaliste et néo-libérale ou société d’hyper-consommation, mais on s’accorde pour la décrire comme une société globalisée et aussi un « flatland », au sens où l’entend Wilber [18]. Dans une telle société, les diverses composantes de la culture tendent à s’éloigner des contextes indigènes et traditionnels et sont contaminées par des paradigmes socioculturels uniques et uniformes. Nous en sommes ainsi réduits à vivre en construisant notre propre culture par des choix, certes limités, entre ces composantes socioculturelles, puis en les arrangeant, en les confrontant, en les comparant, ou en les rapprochant, autrement dit en effectuant un processus de négociation-appropriation[19]. De ce fait, les systèmes de valeur ou éthiques, ou les constructions identitaires, offrent les aspects et les dimensions les plus variés, et nous nous voyons alors contraints de jouer en permanence nous-mêmes les pilotes, en posant des points de référence pour nous repérer. Il me semble donc qu’il faille considérer le processus de légitimation de Mahikari comme une des réponses à cette demande de réflexibilité imposée par la société actuelle. Car c’est justement cette demande de réflexibilité devenue la règle du “flatland” qui dut obliger Mahikari à entamer la légitimation de sa pratique et de l’universalité de sa vision du monde par une comparaison et une référence aux religions et aux peuples du reste de la terre.

 

4-4 Perspectives.

Voilà donc les conclusions auxquelles je suis parvenu en me penchant sur le processus de légitimation observé dans Mahikari, et en le replaçant dans le double contexte de la société japonaise et de la société globalisée. Pour terminer, je souhaiterais joindre à ce texte quelques remarques sur des problèmes qui restent à étudier.

Il m’est arrivé de faire usage d’expressions issues de l’interprétation psychanalytique pour ce travail : il ne s’agissait pas simplement de métaphore destinées à enrichir ce texte. Si l’on désire travailler en profondeur cette thématique de l’obtention de la légitimité, il nous faudra obligatoirement aborder l’histoire personnelle des individus concernés, ainsi que l’environnement psychologique et spirituel dans lequel ils ont baigné. Tout simplement parce que le problème de la légitimation est intimement lié avec celui de l’identité sociale et culturelle des individus. Et c’est donc dans cette perspective que j’ai fait usage de l’interprétation freudienne. Mais pour des questions de place, et aussi pour ne pas aventurer trop loin la réflexion, il ne m’a pas été possible de développer ici une herméneutique psychanalytique trop poussée. Pour surmonter les limites qu’impose une macro-analyse au niveau des discours des patriarches et des autorités de la secte, il faudrait recourir aussi à une micro-analyse qui s’attacherait à étudier comment, en réalité, la légitimation de l’universalisme de la secte se construit à l’échelle des croyants de base, ou dans l’interaction entre ces derniers et le patriarche ou les autorités de la secte. C’est par la conduite d’une analyse interprétative des processus liant le monde symbolique de la secte à ceux de l’imaginaire et du réel, que l’on pourra sans doute enfin répondre aux questions que j’ai posées au début de cet article. Et l’on peut penser que les résultats d’une telle recherche nous fourniront alors des éléments essentiels pour une réflexion plus globale sur le problème de la légitimité au Japon.

 

 

[1] Pour une présentation plus précise de Sukyô Mahikari, cf. INOUE et al. (ed.) 1996 :140-141,379-381, OKADA 1983a, KASHIO 1997.

[2] Sur la situation de Mahikari en France, cf. KASHIO 1996a. Concernant plus particulièrement l’interprétation par les Français de “l’Art de Mahikari” et le “Changement de pensée”, Cf. KASHIO 1999.

[3] Sur la perception qu’avait Okada de sa révélation, cf. OKADA 1969 :

Okada raconte que, frappé par une fièvre aux causes inconnues, la divinité lui accorda à son réveil la révélation suivante : il se nommerait désormais “Kôtama” (“Le joyau de lumière”) et devait pratiquer l’imposition de mains. Par ce geste, il dissiperait les nuages qui obscurcissaient le corps et l’esprit des hommes et les purifierait. Ainsi naîtraient de nombreux êtres humains croyant en l’existence de la Divinité (les “Tanebito” ou “hommes-graines”), et serait alors secourue la société actuelle dominée par la civilisation matérielle, à la place de laquelle serait édifiée une civilisation spirituelle.

[4] Sur les jeux de mots dans Mahikari, Cf. KUNEHITO et al. 1993.

[5] Le sanctuaire de Mahikari est situé dans la ville de Takayama, département de Gifu, au centre de l’île de Honshû. L’enceinte du sanctuaire central ainsi que les autres temples ou installations de la secte, en plus de Quetzalcoatl, sont constitués de répliques de bâtiments et monuments de civilisations anciennes comme celles de l’Egypte, ou largement inspirées par elles. On trouve par exemple des temples-pyramides d’allure méso-américaine. D’autre part, le symbole de la secte appelé “l’œil du dragon” (kagome) a la même forme que l’étoile de David. Et à l’endroit ou s’entrecroisent les triangles s’inscrit une croix entourée d’un cercle. Tout cela est censé représenter l’alliance de la civilisation du feu et de l’eau, de la civilisation matérielle et de la civilisation spirituelle. On peut estimer que cette distribution de monuments symbolisant les diverses civilisations du monde légitime le caractère universel de la secte. Toutefois, dans le présent article, je me limiterai aux domaines de la pratique et de la pensée de Mahikari, et je laisserai de côté ces aspects architecturaux et symboliques pour une étude ultérieure.

[6] L’histoire apocryphe, comme son nom l’indique, est une histoire falsifiée, une histoire fictive. Celle qui nous préoccupe ici est donc une histoire fabriquée après l’ère Meiji. Toutefois à notre époque où est rentrée dans les mœurs l’historiographie post-moderne qui veut que l’histoire « véridique » n’existe pas, et qu’elle diffère suivant le sujet qui la raconte, ces pseudo-histoires deviennent un miroir idéal pour mettre en évidence ce qu’est « l’Histoire ». Et pourtant, elles ne font pas l’objet du même traitement scientifique que les écrits apocryphes du christianisme. Dans le Japon actuel, de tels textes sont tenus pour simples balivernes : autant dire que l’univers où Mahikari évolue avec le plus grand sérieux est absolument consternant pour la plupart des Japonais. Sur les débats autour de ces histoires apocryphes, cf. FUJISAWA et al. 1979.

[7] Les Écrits de Takeuchi sont à présent disponible en version japonaise “standard” dans l’édition de Hachiman shoten. Pour les circonstances de la rédaction de ce texte, on pourra s’y reporter ainsi qu’à TAKEUCHI 1984. Hachiman shoten est une maison d’édition spécialisée non seulement dans les histoires apocryphes, mais aussi dans le spiritisme, la divination, le taoïsme, les médecines parallèles, le zen, etc. bref, dans le “New Age” en version japonaise.

[8] L’écriture fut introduite dans l’archipel japonais sous forme de caractères chinois, au fur et à mesure que s’y développait l’influence continentale. Mais dès le Moyen-Ãge, des courants du culte shintô soutenaient qu’une écriture indigène avait existé au Japon avant les contacts avec la culture sinisée. Toutefois on n’en trouva nulle trace jusqu’au début du XIXe siècle, quand Hirata Atsutane (1776-1843), l’un des principaux refondateurs du shintô moderne et inspirateur de l’ultra-nationalisme pro-impérial, prétendit l’avoir redécouverte. Le caractère apocryphe de ces signes ne fait cependant aucun doute et, détail curieux, l’une des sources d’inspiration pour la fabrication des “caractères divins” semble bien avoir été l’alphabet coréen, inventé au XVe siècle.

[9] Les « Chroniques du Japon » (Nihon-shoki) constituent la première des 6 histoires officielles rédigées sur ordre de la Cour au début de la période antique. Elle débute par des récits mythologiques du “Temps des Dieux”, et s’achève à la fin du VIIe siècle.

[10] Takeuchi bunken shiryô shûsei (“Recueil des documents de Takeuchi”)“Ten no maki” (“volume du ciel”) : 36-44, 137 et ibid.“Chi no maki” (“volume de la terre”) :33-36.  A propos de ce second texte, le partisan de l’origine commune des Juifs et des Japonais Sakai Katsutoki, écrit les choses suivantes dans ses “ Cents récits de l’histoire secrète du temps des Dieux” (“Shindai hishi hyakuwa”), un commentaire des “Ecrits de Takeuchi” :

“Il est extrêmement puéril de classer les races humaines en “Européens" ou en “Asiatiques” selon les régions, et cela dénote des recherches bien insuffisantes. Dans la Grande Antiquité, on distinguait les hommes selon leur couleur, et parler des “hommes des cinq couleurs” revenait à parler de l’humanité tout entière. A présent aussi nous effectuons une distinction entre les hommes jaunes ou les hommes blancs, mais dans la Grande Antiquité, on les classait en jaune, noir, rouge, blanc, bleu, et leur lignage était parfaitement identifié. (…) Cela revient à dire que les théories établies qui font d’Adam et Ève les ancêtres de l’humanité sont renversées, et abattue l’histoire universelle courante qui pense trouver son origine il y a seulement 6 ou 7000 ans. Ainsi les représentants de ces hommes des cinq couleurs par exemple ne manquèrent jamais d’aller se rendre en pèlerinage au Japon qui s’appelait alors Amatsukuni (“Le pays du céleste port » ou « le pays céleste », suivant les transcriptions, NdT). Non seulement ces hommes des cinq couleurs ne cessaient pas de fréquenter notre pays, mais il est avéré qu’il s’en trouva aussi un nombre non négligeable pour s’y fixer et mélanger leur sang avec celui de notre peuple. De sorte que l’on peut penser qu’il n’y a personne au sang plus mêlé que les Japonais. Mais la raison pour laquelle, même ainsi, ils ne furent pas assimilés par d’autres et plutôt en intégrèrent beaucoup, n’est rien d’autre que son rapport direct au Ciel, ne tant que Pays du Soleil. Et ce n’est pas tout : les ancêtres de ces hommes aux cinq couleurs ont tous reçu en partage le lignage de nos Empereurs. Ils sont en effet issus de Tsukurinoshikiyorozuomihikarisumiramikoto, père de Amenohinomutohinohinominoshikami et grand-père d’Amenominakanushinokami : les hommes des cinq couleurs sont par conséquent tous parents, et l’on peut ainsi établir pour la première fois que toutes les nations de la terre ne forment qu’une seul et même famille. Et s’il en est ainsi, alors il n7y a rien d’étrange à ce que le Japon unifie le monde.

[11] Takeuchi bunken shiryô shûsei (“Recueil des documents de Takeuchi”) “Ten no maki” (“volume du ciel”) 40~43, 268-272

[12] Cf. KANO 1936. Les critiques de Kano portent sur les points suivants :

1/ La titulature administrative de l’époque à laquelle sont censés avoir été écrits les documents est inexacte.

2/ La grammaire et l’emploi du syllabaire sont clairement fautifs.

3/ Des caractères chinois sont employés aux endroits ou figurent des “caractères divins”

4/ On trouve des passages utilisant des expressions ou des connaissances d’époques postérieures.

[13] Cf. INOUE et al. (ed.), 379-381.

[14] Parmi tous ces récits, l’un de ceux qui ont fait le plus de bruit est celui du séjour du Christ au Japon, ou plutôt qui prétend que « le Christ serait mort au Japon ». Dans le village de Heraimura, tout au nord de l’île de Honshû, dans le département d’Aomori, se trouve une « tombe du Christ» : c’est un jeu de mot entre le nom de ce village, « Herai », et le mot « Heburai » (qui signifie « hébraïque » en japonais) qui est à l’origine de cette histoire. Et ce sont les « Documents de Takeuchi » qui lui fournissent ses « preuves historiques ». Sur cette question, cf. ARIGA 1976a, b, c, 1977a, b, c. On peut ajouter qu’une militante pour les droits politiques des femmes de la première moitié du XXe siècle, Yamane Kiku, après sa rencontre avec les « Documents de Takeuchi » en 1935, s’impliqua dans des mouvements religieux prenant pour base les histoires apocryphes et écrivit un livre intitulé Le Christ est mort au Japon (cf. YAMANE 1994). Yamane qui avait ressenti de l’intérêt pour le christianisme dans son enfance, avait recherché dans la politique un espace de lutte pour secourir la société, mais après que les documents de Takeuchi aient levé ses doutes sur la résurrection de Jésus-Christ, elle passa des mouvements féministes à la recherche et à l’essai sur l’histoire de la Haute Antiquité.

[15] « Tennôcentrisme » est un néologisme pour le japonais « tennô-chûshin-shugi », le « Tennô » étant le titre adopté couramment depuis la fin du VIIe siècle le souverain japonais, et que l’on traduit habituellement en français par « empereur » (NdT).

[16] Cf. KASHIO 1996b. Il y est question de l’influence qu’ont eu les histoires apocryphes, comme celle ayant trait à l’origine commune des Juifs et des Japonais, sur la secte Aum-shinrikyô.

[17] Ce point est plus précisément discuté dans KASHIO 1996b.

[18] WILBER 1996.

[19] Dans KASHIO 1996, je tente d’expliquer l’attitude des Français face à Mahikari par ces concepts de « négociation » et « appropriation ».

 

 

 

 

 

 

article 7: 比較瞑想論と宗教間対話―宗教研究の実践論的転回へ― 樫尾直樹

(樫尾直樹・本山一博編『人間に魂はあるか?-本山博の学問と実践』国書刊行会、2013年、pp.83-118.所収)

「人生で起こることは、すべて、皿の上でも起こる。」(ミシェル・サラゲッタ『王様のレストラン』)

「Je vis de bonne soupe, et non de beau langage.(私はうまいスープで生きているのであって、立派な言葉で生きているのではない。)」(ジャン=バティスト・ポクラン・モリエール『学者きどりの女たち』)

 

1.料理を食べない料理評論家?!

 世の中に「料理評論家」と呼ばれる人たちが少なからずいることは、テレビや雑誌、書籍などを通じて私たちのよく知るところである。たとえば、私の友人に、『東京いい店、うまい店』(文藝春秋)編集長の柏原光太郎君がいるが、料理評論家としての彼の生活を垣間見るに、毎日うまいものを喰っているらしく、「料理評論家」というのは実にうらやましい職業である、と常日頃嘆息している。

 ある日、いつものように嘆息していたとき、ふと、「料理を食べない料理評論家って果たしているのだろうか」という疑問が頭の中核あたりから浮かんできた。

「料理を食べない料理評論家」。

たしかに論理的にはありうるだろう。たとえば、料理を食べずに、料理のレシピの知識だけに徹底してこだわる料理評論家を想像してみることは、たしかにできる。しかし、そんな料理評論家は、管見によればおそらくいないにちがいない。料理を食べない料理評論家などいないのだ。

だが、こと宗教研究者に関して言えば、その多くは「料理を食べない料理評論家」である、と私は考えている(1)。

ほとんどの宗教家にとって、宗教とは、宗教体験である(2)。しかし、それにもかかわらず、多くの宗教研究者は、大別して、1.体験の内容をブラックボックスとして扱い、それがどう動くか調べるか(宗教社会学・人類学)、2.体験を、観察と信者の言葉を媒介として外在的、客観的に記述し理解するか(宗教学)、3.宗教者の解釈をそのまま記述するか、解釈するか(宗教人類学、民俗学、哲学)のいずれかの方法によって、「宗教」(なるもの)を研究しているというのが学問的常態である、と言っても過言ではないだろう。

 しかしながら、果たしてそれで、宗教体験を十分に理解したり、説明したりしたことになるのであろうか。

 答はもちろん、NOである。宗教の核心であると考えられる宗教体験をより深く理解するためには、宗教を「食べる」ことをしてみないとわからないことも少なくないのではないだろうか。

ここで筆者が使用している「宗教を食べる」という表現は、もうすでにお分かりいただいていると思うが、宗教を思惟の対象とする際に、その核心であると考えられる宗教体験と、その体験を醸成する諸実践、とりわけ身体実践に着目し、それらを考察の対象の中心に据える、という方法論的立場を意味している。言ってみれば、本章の題名にある「宗教研究の実践論的転回」を標榜しているのである。

さて、本章は、以上のような宗教研究上の学問的要請の自覚を前提としつつ、そうした実質的な宗教学批判を行ってきたと学史上位置づけられうる、本山博の実践と宗教学・哲学研究(3)を振り返りながら、本山の宗教研究上の学問的貢献とその批判的継承の可能性について考察することを目的としている。本山は、日本国内においてはそれほど人口に膾炙されるわけではないが、日本へのヨーガの紹介者、「チャクラ」という言葉の伝播者、あるいは密教ヨーガの指導者として、世界のニューエイジ(精神世界)やスピリチュアリティ文化の中ではたいへん著名な宗教家、神秘家であると当時に、自己の宗教体験を言語化するだけではなく一般理論化してきた宗教研究者でもあり、上述したような現代の宗教研究の抱える深刻な問題に対して、根本的な問いかけを行ってきた稀有な存在である。

以下、宗教研究の現代的傾向性、本山の宗教研究上の学問的貢献、およびその批判的継承の可能性の中心について、順次論じていくことにしたい。

 

2.宗教研究の現代的傾向性

 主として二十世紀後半以降の宗教研究の世界的な主流的潮流(トレンド)は、一言で言えば、ポストモダニズムである。本節ではまず、本山宗教学・哲学の宗教研究上の批判性について議論する前に、このポストモダニズムについて簡単にではあるが、まとめておくことにする。

 宗教研究の方法はじつに多様なので、ここではたとえば、筆者がこれまで主として研究してきた宗教の社会科学(宗教社会学、宗教人類学など)の研究領域を例に挙げてみたい。

二十世紀前半から後半にかけて、機能主義や象徴論がその主要な方法として活用され議論されてきたが、前者には社会統合論のトートロジックな論点先取、安全弁論、および主体の問題などの諸問題が、後者には意味生成の問題、意味の権力論的構築や個人的差異、および象徴の感覚的神経的喚起力の問題などの諸問題が批判点として指摘されてきた。こうした批判は基本的に言語論的な問題構制(プロブレマティック)から行われてきており、リチャード・ローティは、そうした思潮を「言語論的転回」(4)と呼んでいる。

後期ハイデガーや後期ウィトゲンシュタインおよびプラグマティズムなどにその思想的淵源をもつ言語論的転回の思想は、人文社会諸科学のあらゆる領域に影響を与えた。すなわり、モダニズムの物質主義に対するアンチテーゼとして生まれてきたポストモダニズムにおいては、1.構築主義(現実は所与ではなく言語によって構成される)、2.文脈主義(意味は無限の文脈に規定されている)、3.恣意主義(ひとつの言説に特権的な視点は存在しない)という三つの言語論的前提(5)によって、意味の復権が称揚されたのである。

言語は思考を表現する道具ではなく、思考それ自体を構成する働きである、というその中心的思想は、言語のもつリアリティ構築(構成)作用、その象徴的な想像力をいみじくも的確に指摘することとなった。それによって、1.言語は、その表現に該当するものがなくても、文として理解することができる、2.他者にも提示できる規準で何をしているか同定できないと、自分で何をしているのかを捕捉できないという公理が立てられた。それによって、宗教研究においては、宗教者の体験とそれを語る言葉(体験と言葉)との関係性において、その認識論的および方法論的再検討を強く促されたのである。

これは、言語的宗教構成主義という、宗教体験と言葉との関係性における、これまでのそれを根底から批判する新しい認識論的見方を提示したのだが、最も重要なのは、星川啓慈がウィトゲンシュタインの私的言語論(6)を論じながら端的に指摘しているように、「他者の私的領域が存在しつづける限り、言語を媒介とした他者の宗教体験の理解可能性の根拠はない」(星川2011:87)という点である。星川とともにウィトゲンシュタインの議論を受け入れるとすれば、研究者が宗教者の体験にアプローチするための最も重要な資料のひとつとなる当該宗教者の語られた言葉やそれが書き留められた言葉、あるいは書かれた言葉によって、他者=宗教者の純粋な宗教体験そのものに直接触れ、それを理解することはできないことになる(7)。

あえてそうした資料を活用するとすれば、1.語られた(書かれた)言葉に(テクストとして)定着されている思考や思想を、言葉がいかに語られているか、どのように使用されているかといった、表現や文法に着目した語用論的方法(8)か、あるいは、2.研究者が対象化できる「体験的なもの」とは、語られた二次的な体験としての、宗教者の言葉でしかないのだから、その意味において言葉でしかない(言葉によって構築された)<体験>に着目しようとするプラクシス(公共的慣習)論的方法(9)が、今後の研究のありうべき二つの方向性ということになるであろう。

いずれにしても、言語を仔細に点検すること、これこそが言語論的転回以降の不可逆的な研究のベクトルとなったのである。当該宗教者は、自分の体験を語る際に、どんな意味でその言葉を用いているのかという語用論的関心や、語られた言葉の社会政治的な被決定性や権力論的に変化する意味の動態、そうした言葉の意味をめぐるダイナミズムがどのように当該宗教集団や社会の共同性形成に作用するのか、さらにそうした諸社会文化的位相の変化が言説(語彙)の意味にどのような変遷をもたらすのか、というようないくつかの問題系を、そこから立てることができる。

以上見てきたように、言説(語彙)分析と解釈、および言説(語彙)の意味の変遷という大別して二つの言語論的な研究の方向性はたしかに、宗教研究を含んださまざまな人文社会諸科学の研究に、後戻りできない不可逆的な影響を与えてきた。たしかに、言語論的転回以降のポストモダニズムは、言説の被文脈的な成立とそれによる現象の意味づけという意味論的な囲い込みによるリアリティの構築とその理解という点では、妥当であり、それまでの言語道具観に基づいた言語に対する素朴な透明な信頼感を払拭した、と言える(10)。

しかしながら、それによって、宗教の核心とも言える宗教体験と言葉との関係性は、1.言語を媒介として宗教体験は理解できない、2.宗教体験は言語でしかない、という相矛盾する命題によって、実も蓋もない、研究動機が一挙に雲散霧消してしまうような隘路へと落とし込まれてしまったかのような感がある。こうした認識に基づけば、この後研究者に残されている研究上の方向性とは、「宗教」という言葉やそれにまつわる言葉の意味内容を歴史的に、あるいは時間的にトレースしていく記述主義しかないのではないだろうか。「宗教」の内容は言語では理解できないのだから、「宗教」という言葉の意味を探索し記述すること、これである。

とはいうものの、宗教体験や宗教現象の心身的社会的なリアリティは厳然としてあるのだから、記述が宗教を構築するわけではないことは自明なことであるし、私たちの日常言語で、現時点で「宗教」と呼ばれる現象の存在を無視することはできない。これは現場=リアリティを見ない観念主義というべきであろう。また、たしかに「宗教」という言葉自体が近代の産物であるから、社会文化的歴史的な文脈被拘束性とそれゆえの恣意性を孕んでいることは否定できない事実であるが、一方で、まさに近代的な意味で「宗教」と呼んできたかなりの対象に共通した特徴があることもまた否定できないことであり、この意味で、原則的に構築的で文脈被拘束的で恣意的だからと言って、「宗教」という言葉の使用が不可能であるとか、権利問題的に意味がないという主張を全面的に受け入れることもできないのである。

さて、これまで見てきたように、宗教体験こそが宗教の核心であるが、以上の内容を敷衍すれば、他者の体験のみならず自己の体験すら言語化しなければ、その体験がいったいどのようなものなのか捕捉することはできない。しかし、その半面、私的な体験である宗教体験は言語を媒介にして理解することはできない。かろうじて、体験について語られた言語テクストにそれとして定着されていると思われる思考や思想について解釈することができるだけである。以上の三つの命題のトライアングルの中に、現代の宗教研究は囲い込まれている、と言うことができるだろう。

言語という監獄、その中に囚われている宗教とその体験。

これからの宗教研究は、この囚われのままでよいのだろうか。これで宗教を十全に理解できるのだろうか。以上の認識を基に、次節以下では、その牢獄から脱出するための手がかりを、本山博宗教学・哲学の中に求め、その宗教学批判と宗教研究のブレイクスルーの可能性を探ってみたい。

 

3.宗教学批判としての本山宗教学・哲学の学問的貢献

 まずは、心身をニュートラルにして、ポストモダニズム的宗教研究の言語論的な認識論的方法論的構えから自由になって静かに考えてみることにしよう。

 

 3-1 実践論的転回

 まだ言語化されないままに自分の内面で、何かもやもやした曖昧なままの身心状態として、「宗教体験」がそこにある、という状況がある。その身心状態がいったいどういうものなのか、自分で認識しようとするために/他者に伝達しようとするために、その前言語的なある身心状態に意識を向けようとしただけで、すでにそこにはある種の言語化活動が生じてしまう(11)。

 しかし、体験の自己認識的な構成・構築や他者へ自己の体験を伝達しようとする意思が発動する以前には、語りだされて同時に構成されていく意味での体験ではない、いわば原=体験があり、その原=体験は、体験したときの身体的な体感や感覚、あるいはそのときに発した情動として自己の内面に前言語的に刻印されたものである。こうした前言語的な具体的な体感や、超越的存在者や力の臨在性としてみなされる圧倒的な感覚に捉えられることによって生じる体感を、ただ単に言語による実体化、あるいは言語による幻想の現前化とのみ把握するだけでは不十分である。それはそこに身体的なリアリティがあるからである。この事態は決して言語によって構成されるのではなく、言語化される以前に―事後的にそれがいかなる言語によって表現されたとしても―ある身心のまぎれもない状態である。

 以上からわかるのは、体験の言語化による構成的な体験以前にある原=体験は、言語的宗教構成主義によっては決して捉えられない、ということである。そして、こうした原=体験は、祈りや瞑想といった宗教のある固有の身体実践によって生起しているという点がきわめて重要である。

 このような宗教的身体実践が原=体験を生み出し、宗教者の内面にある固有の身心(意識)状態を創造するのである。この過程に着目すると同時に、より十全な理解ために研究者自身も宗教的身体実践を行なうという、実践に関する双面的な方法論的態度を、筆者は「実践論」と呼び、その方法論的態度へと宗教研究の舵を取るドライブを、「実践論的転回」(12)と名付けたい。

 たしかに、体験を何らかの方法で言語化したことで発話/文字化された語りやテクストを、その権利問題を棚上げにして共感的に、仔細に点検することは、一次的、二次的体験を問わず、きわめて重要な方法であることは間違いがない。しかしながら、言語の点検の前にしなければならないのは、原=体験の仔細な点検である。最終的帰着点であるとみなされる、体験を言語化したもの(ときにそれは「教え」と呼ばれる)の成立の背後にある、前言語的身体的意識的体験に着目すること。この点がクリアされていないと、逆に原=体験がその元になっている語りやテクストをよりよく理解することはできないのである。

 しかし、他方、一次的体験としての原=体験を、事後的に二次的体験の構成の過程の中で語ろうとするとき、そこには、まずは個人の私的な体験の質の仔細に意味を与える解釈枠組としての、当該教団において伝統的に洗練されながら創り上げられた体験解釈のための一連の教えのセットや、体験当事者の世界観に基づいて形成された解釈枠組によって言語化される。原=体験を間接的に表現しているとされる二次的体験として言語的に構築されるその意味と、教えや世界観の解釈枠組とのある種の邂逅もしくは葛藤の中で、やはりその体験は伝統的な解釈枠組の鋳型モデルでたしかに整形される。ときには、その鋳型モデルで整形できない体験もあり、そうした体験の言語化は、従来の解釈枠組とその言葉自体の再構築を誘発することもあるだろう。

 以上のように、体験と言葉が螺旋的に相互作用して、実践論的に「宗教」は創出されていくのである。それゆえ、その過程は、単なる構築主義でも単なる体験主義でも捉えることはできない。

 

 3−2 本山博の実践論的志向性

 このような宗教の実践論的理解に先鞭をつけてきたのが、管見によれば、本山博であると言える。

 本山のほとんどの著作は著作集にまとめられている。そのほとんどは講演録の形式をとっており、主として、自己の宗教体験の記述とそれに基づく瞑想の一般理論と神秘階梯論/意識階層論、およびそれらと諸宗教との比較論とそれを踏まえた普遍宗教論、ならびに宗教体験の電気生理学的研究と、人文社会科学から自然科学までのじつに多岐にわたる論考が所収されている。

 ここでは、紙幅の関係から、すべてについて言及することはできないので、実践論の方向性が比較的よく表出していると考えられるテクストの中から、主として、『場所的個としての覚者』の中に収められている「仏陀の悟り」(本山2009c:150-193)と、『呪術・オカルト・隠された神秘―心の成長と霊の進化の宗教学』の第三章「神秘体験と神霊現象の違いを探る―神、神々、心霊の違い」(本山2009a:277-315)に限定して論じることにしたい。

 ただ、その前に、本山の瞑想実践と世界観について簡単に言及しておこう。

 本山にとって、瞑想とは「究極の目的は、身体や心を健全にするだけでなく、人間の存在そのものを霊的に進化させ、宇宙の絶対者と一体にならしめるところにある」(本山2008a:20)。本山は、「密教ヨーガ」「タントラ・ヨーガ」と呼ばれるヨーガの実践を主たる瞑想修行としてきたが、その基本はハタヨーガである。ハタヨーガをベースにしながら、道教瞑想の中心的実践のひとつである小周天などの周天法と、脊髄の督脈に気(プラーナ)を上下させて気の通り道を浄化するスシュムナーの浄化法という独自の実践をそこに加えた瞑想法を行なっている。実践的にはヨーガと気修練を総合し、理論的にはチャクラ理論と経絡理論を統合しながら体系化していると言ってよいだろう(同書)。

 本山は、以上のような瞑想実践(宗教的身体実践)を行いながら、自己の宗教実践を、インド哲学の中でも、精神性だけではなく物質性も重視しているサーンキャ哲学を基礎としながら、神智学用語を専用して、記述するだけでなく、理論化している。本山の宗教的世界観は、同時に神秘体験の修道論であり、それゆえ神秘階梯論(意識階層論)の形式をとって展開される。

 まず本山にとって、宗教とは宗教体験であり、「神との、存在上、働きの上での一致こそが宗教体験である」(本山2009c:21)とする。その宗教体験には階梯があり、肉体の次元、アストラル(微細)身(心霊)の次元、カラーナ(原因)身(霊)の次元、プルシャ(神霊)の次元、創造神との合一という霊的成長の至高点という諸階梯に分類されている。カラーナ身の次元までは身体性をもつが、それ以上では身体性(カルマ性)はない(同書:22)。それぞれの次元では、修行によってその次元における自己のあり方が破れ、自己否定され、その次元特有の霊的神的存在との一致が実現する。各次元での自己否定の過程には、霊的神的存在との「単純な一致」、「エクスタシー」(脱自)、そして「完全な一致」という三つの段階からなる共通の過程がある(同書:29)。

 本山は以上のような神秘階梯論的世界観の言説とその言説生成の背景となった宗教体験をひとつの指標にしながら、絶対の真理としての宗教は存在しえず、あるのは個々の相対的な宗教だけであるという宗教相対主義の立場から、どのような世界宗教も自己の宗教も特権化することなく、他の宗教言説とその言説生成の背景となった身体的体験を理解しようとする。筆者はこうした本山の方法的態度に、実践論的志向性を看取する。

 『本山博著作集』のすべての解題を執筆した、本山一博は、本山博の実践論的志向性を「新体験主義」と呼称しながら、以下のようにその特徴を端的に指摘している。本山博の「新体験主義」とは、「相手の教えに敬意を払いつつ教義の背景にある体験を見据え、体験の持つ特殊性からくる独善性を排除し、体験の普遍性を言語化しようとした教義によって支えられながら、しかし、その教義を体験によって相対化するという、言わば右足を体験に左足を教義において二本足で立ち、相手と自分の宗教の相対性と普遍性の両方をにらみながら対話をすることである。」(本山2009:647)

 具体的に「仏陀の悟り」における本山の言葉に耳を傾けてみよう。

 

  四禅というのは、「楽を捨て、苦を捨て、喜びも憂も捨てたので、不苦不楽(感情をこえた)であり、心が平静となり、念(想念)が清まった状態」と書いてありますが、これをどういうふうに解釈するかが問題です。/想念(imagination)が止まらないと、次のカラーナやその上のプルシャの次元には入れない。ここで「想念が清まった」と書いてありますが、それは直観とか一種に閃きのようなものも止まってしまったような状態、というふうに考えたほうがいいと思うのです。ですからここは、アストラルの上界での三昧というふうにも考えられるが、想念が止まったのだから、アストラルの上界というよりは、むしろカラーナの次元の始まりというふうに考えてもいいと思うのです。色界の四禅は、イマジネーションが清まるというより、止まるというふうにみて、アストラルというより、カラーナでの三昧と考えたほうがいいと思います(本山2009c:160-161)。

 

  非想非非思に相当する神秘体験の境地は、神との合一が進み、一種の神の意識、超意識が目覚めてくると、神の働きから離れて自分はなにもないと思った、その存在を否定された自分(プルシャであってもカラーナ、アストラルでも構わない)、今までの我執や想の塊りである自分が、大きな場所の自分、超意識内の一つの働き、道具として含まれているのを知る。その大きな自分は、想う自分、小さな自分でなく、しかし想う自分を無くしているのでもないことがわかる、そういう境地なのです(同書:176)。

 

  色界の四つの禅定は、微細身とかカラーナ身がその存在性をだんだん否定されていき、それらを超えていく定の状態を四つに分けたわけです。無色界定というのは、色界の四つの禅定を超えてプルシャの状態になり、プルシャの心の識別する働きとかプルシャの次元の想念とか、そういうものがだんだん止まっていって、物の力から離れて純粋精神になった、その純粋精神が絶対の神と一つになっていく過程を表わしています。しかし一つになったからと言っても、絶対の神と一つに合一をするような自分が在る状態が、無所有定とか非想非非想の状態なのです(同書:182)。

 

 仏陀の説いた神秘階梯論的修道論のひとつである九次第定の教えの言葉を理解するに当たって、自己のヨーガの瞑想修行での体験とその理論言説を比較の手がかりとしながら、その教えの言葉が生成する背景となった仏陀の体験にまで降り立って、その言葉の指示する意味を探り、それを相対化しようとしていることが具に了解される(13)。

 また、『呪術・オカルト・隠された神秘―心の成長と霊の進化の宗教学』では、たとえば次のように述べている。

 

  絶対的創造神が創造という働きをやめた時、純粋精神の原理が純粋精神の原理であることをやめた時、物の原理も消滅し、ただ「絶対」があるのみである。(中略)アラヤ識の働きが止まってしまってアラヤ識がなくなったら、物の世界もなくなってしまうのだ(中略)、そこが般若、ニルヴァーナの世界だというふうに唯識で説くわけですが、そのアラヤ識(中略)を、プルシャの次元とか創造者の次元と(中略)どこかで混同しているように思う(本山2009a:312-313)。

 

 ここでは、自己のヨーガ修行から得られた体験と知見を、唯識と比較することによって、それを相対化し、アラヤ識という術語の指す意識領域を批判的に検討していることがうかがわれる。

 以上、簡単ではあるが、本山の宗教研究における実践論的志向性について見た。以下ではこれをふまえて、そのような研究上の志向性が、どのような新しい宗教学の可能性をもっているのか、その宗教学批判に焦点を当てながら考えてみることにしよう。

 

3-3 統合的比較宗教学

本山は―先に少し触れたように―、ハタヨーガを中心としながら、そこに止観(坐禅)と道教瞑想などの諸瞑想の体験を加え、そこから導出した神秘階梯的修道の一般理論を指標としながら、他の諸宗教と比較し、より普遍的な宗教的世界観を探究(探求)してきた。

宗教学は日本のみならず世界的にみても、瞑想論や修行論といった行為系の研究は、近代以降の宗教体験に対する強い関心の醸成にもかかわらず、あまり盛んには行なわれてこなかった傾向があることは否定できない。上述したように、体験を記述したテクストには関心がもたれても、体験そのもの、そして特に体験を生み出す宗教的な身体実践には、あまり関心が向けられてこなかったのである。

 それゆえ、こうした研究上の事情を考えても、本山の比較瞑想論的な比較宗教学の試みは宗教研究上きわめて興味深いものであると言うことができるだろう。そして、このこと自体が現行の宗教学批判になっている。

 宗教学はそもそも、比較宗教学として始まった。かつ日本では、日本の宗教学の創始者、姉崎正治がいみじくも言ったように、宗教学は日本で生まれてもよかったし、あるいは井筒俊彦が述べているように(井筒1991:あとがき)、近代的学問は西洋から移入されたので、日本人が西洋のことを研究すると、意識しなくてもその研究はそのまま比較研究となる。しかし、それにもかかわらず、比較宗教学の方法は管見によれば、ほとんど本格的に精錬されてはこなかったのが実情ではないだろうか。

 本山の実践論的な志向性をもつ宗教研究の最も大きな貢献はおそらく、その教相判釈的方法にある。たとえば、空海の『十住心論』にその試みは似ている。ここには神秘主義論争などで問題化された、宗教体験の同一性の原理に関する問題があるが、それはここではおく。本山の依拠する立場からすれば、諸宗教の瞑想実践によって醸成される神秘体験には同一性の原理が貫徹しているので、ここではそれを前提として考えることにしたい。

 本山は、先に見たように、異なる宗教の神秘的宗教体験の間に通約可能性を見ている。思うに、それは、ある特定の宗教的身体実践を行なえば、それ固有の身体的体感や身心的状態が生起すると想定する、身体実践論的仮設があるからではないだろうか。どの宗教も絶対的ではなく、相対的である。その教えは、歴史的文化的社会的に影響を受けているという点でも相対的である。それゆえ、個々の宗教の体験とその言語化を互いに比較することによって、微妙に差異のある身体観や世界観に共通するより普遍的な階梯=構造を明らかにすることができるのではないか。本山が目論んでいるのは、このような意味でのまさに真正な(総合的と言うよりもむしろ)統合的な比較宗教学ではないだろうか。

 

4.本山宗教学・哲学の批判的継承の可能性

 さて、これまで、宗教研究の現代的傾向性である言語論に対して実践論的転回の可能性を指摘し、その先駆的仕事としての本山博の統合的比較宗教学的研究の試みの実践論的志向性について見てきた。

 最後に、このような可能性をもつ本山宗教学・哲学を、今後どのような視座と方向性から継承できるのかについて考え、本章を閉じることにしたい。比較瞑想論、普遍宗教論、および達人宗教学批判という三つの視点を提起する。

 

 4-1 比較瞑想論

本山の扱っている瞑想は、ハタヨーガ、道教瞑想、止観が主であるが、仏教ひとつとっても、密教のマンダラ観想法、上座仏教のヴィパッサナー瞑想など多くの瞑想があるし、イスラームのディグルやキリスト教の黙想、霊操など、アジア以外の瞑想法も数多く存在する。

したがって、本山の切り開いた統合的比較宗教学のひとつのアスペクトである比較瞑想論は、その研究対象の拡大と、そこから瞑想・行の一般類型と一般理論、とくに瞑想の一般構造の探究へと発展させる必要があるだろう。本山の瞑想の三段階理論はなかでも、長年の実践と比較研究により、きわめて洗練されたものとなっているので、本山が行なったのと同じように、その三段階理論を他宗教の体験とその言説に適用して、両者のズレを探り、より普遍的な理論へと精緻化することが求められる。その際には、本山の著作で散見されるような概念のブレを修正し、より一層の概念の精緻化を行なうことによって、統合的比較宗教学の十全な構築へと向かうことができるのではないだろうか。

各宗教の体験と言説の相対化を通した普遍性の探究は、先に指摘したように、教相判釈的な吟味がどうしても伴わざるをえない。これはある意味で、諸宗教のヒエラルヒーを構築することにつながるのかもしれない。信教の自由と平等主義的民主主義の立場からすれば、そうしたヒエラルヒー構築は倫理的に問題ありとされることがないわけではないだろうが、すべての宗教は絶対ではないのだから、あるポイントに関しては得手不得手があるだろうし、結果的に優劣がつくこともあるだろう。慎重に作業しなければならないのはもちろんだが、研究上の可能性として頭から否定することはできないのではないだろうか。

研究体制としては、瞑想はじつに多様なので、本章で提起した実践論―宗教的身体実践への着目と研究者自身の実践へのコミットメントという双面―という方法論を同じくする研究者=宗教者による共同研究は必須である。これは実践の側面からも、メタ瞑想共同体へと同時に展開していくことが望まれる。体験の言語化の正当性問題は依然として残ることからしても重要である。これは定期的な瞑想の比較実践のワークショップ―「瞑想サミット」とでも呼んでおこう―という形式でもある程度可能だろう。いろいろな形での文字通りの「実験」をしていくことが肝要であろう。

 

4-2 普遍宗教論と宗教間対話

次は、普遍宗教論である。

比較宗教学は常にその学究的根底に「宗教とは何か」という問いがあるから、宗教の多様性の混沌の海に溺れなければ、必然的に普遍宗教論へと展開する。

本山は、かなり頻繁に普遍宗教について語っている。本山の術語では「世界宗教」という語彙が使用されているが、宗教学においては「世界宗教」は別の意味の術語なので、ここでは「普遍宗教」という語彙を使用することにしたい。本山の議論にはふたつのベクトルがある。ひとつは、「宗教」という言葉でその本来性を示される、根源的な宗教としての普遍宗教である。いまひとつは、グローバル化の進展の中で、文化的歴史的差異が極小化していく過程を前提として結果的に生起するグローバルな宗教(「世界宗教」)としての普遍宗教である(本山2008b, 2009b, 2009d)。

 瞑想・行をその実践の中心に据えた、神秘階梯論的修道論としての宗教像を提起する本山の指向性は、他の宗教に比較して、現代的なスピリチュアリティ文化に親和的であるように見える。本山宗教学・哲学から敷衍される理想的な宗教像は、瞑想・行が生み出すスピリチュアリティ(霊性)を第一に重んずる宗教であり、この意味で「開かれた宗教」(14)と言え、これは「普遍宗教」のひとつのモデルを示している。世界的な宗教学的思潮の中に本山の普遍宗教論を位置づけると、それは身体実践を重視した、ペレニアリズムの先鋭化された形態であるとみなすことができるだろう。

 ただし、現行の宗教の百花繚乱の状況を見るに、普遍宗教をひとつの宗教として、あるいは諸宗教を包括するひとつの宗教として実体的に捉えることは果たしてできるのだろうか、という問題は残る。本山はたしかに包括主義者ではないが、普遍宗教を実体的に捉えているきらいがないわけではない。この点は議論の別れるところであろうが、ここではさしあたり実体としての普遍宗教ではなく、普遍宗教性としておさえておきたい。

 このように普遍宗教性という関係概念から普遍宗教論を構築しようとすると、この議論は、宗教間対話論へと自ずと展開していく。いみじくも、『本山博著作集』の解題を書いた本山一博は、本山博の「体験主義が宗教間の対話を促進しうる相互理解志向の体験主義という新しい体験主義の形で表出されている」(本山2009:645)と鋭くも指摘している。

 宗教間対話論という観点から、本山宗教学・哲学を見ると、その実践論的指標を示唆していると考えられる。すなわち、諸宗教の対話の比較的ポイントとしての世界観と瞑想・行という軸である。これは、宗教間対話における対話と霊性交流というアスペクトに相当するが、この従来のアスペクトにおいて一体何について厳密に語り合えばよいのか、そしてどのように語り合えばよいのかについての示唆が与えられている。それはまさに、先述したような統合的比較宗教学の構えである。本山が独りで行なっていることを異宗教者間の対話として実践すればよいのである。

 

4-3 達人宗教学を超えて?

さて、最後に、達人宗教学批判について簡単にふれておきたい。

冒頭でも述べたように、本山は日本国外では「スピリチュアリティの巨人」と呼ばれるように、著書も比較的読まれ、よく知られた宗教家、研究者である。しかし、日本国内においては精神世界やニューエイジ、あるいはスピリチュアリティ文化に関心のある人や実践者の間でもあまり知られているとは言えない。

こと研究ということになれば、国内外においてあまり目立って行なわれていないというのが現状であろう。それゆえ、まずは本山博研究をきちんと行なうことが大切だ。本書はその先鞭をつけるために編まれている。

ただし、本山は卓抜した宗教家、神秘家である。先天的な霊的能力と修行の成果という両面を兼ね備えている。その関係性とバランスを、ふつうの人間が獲得するのはじつに困難であると言わざるをえない。別言すれば、実践論的に、後天的に毎日修行に励んだとしても、本山と同じような神秘体験はできないだろうし、同じような精神的境位になることも適わないであろう。

つまり、ここで私たちがぶちあたるのは、「後天的な瞑想だけで、比較瞑想論に基づく統合的比較宗教学は可能か」という問いである。これを乗り越えるには、前述したような何らかの形での共同作業が必要であるとしかここでは言うことができない。本山研究の要請と言っても、そもそも霊能者であり研究者である双面の本山の宗教学・哲学を検証あるいは反証することは、どのようにして可能なのだろうか。

もちろん、ここでこうした難問に答えることはできないが、いずれにしても、本山宗教学・哲学は、魂の実在性を前提とした、これからの新しい学問=科学の可能性にとって、私たちの前に開かれた沃野であり、誰もが避けて通れない「場所」であることはまず間違いのないところであろう。今後の更なる実践=研究に精進することが切に求められる所以である。

 

注                                                                  

(1)筆者は、宗教学者の比喩に「料理評論家」が適切かどうかという問題がないわけではない、ということを自覚していないわけではない。たとえば、「バットを振ったことのない野球評論家」はいるだろう。陸上競技など特定スポーツを専門としていたスポーツ評論家が、自分の仕事のレパートリーを広げるために、経験したことのない野球などの別のスポーツの評論を始めることは可能だし、じっさいにそうした評論家は実在している。この点からすれば、「料理評論家」ではなく「野球評論家」という比喩のほうが当てはまるとも考えられるだろう。また、あるいは、「料理を食べない」ではなく、「料理をしない料理評論家」という比喩のほうが適切できないか、という見解もありうるだろう。たしかに、そうした料理評論家は少ないだろうが、たとえば、「寿司を握らない寿司(料理)評論家」は少なくないだろうからである。しかし、筆者は本章で批判的に捉えている事態を重くみており、「料理そのものを味わう」ことこそが料理において一般的に最も重要なことだという認識を持っているので、よりポレミカルな比喩を選択することにした。なお、「野球評論家」の比喩のアイディアについては、宗教社会学者でヨーガ実践者の伊藤雅之氏のご教示による。

(2)筆者は、ここでいうような「宗教体験」という言葉によって表現される、宗教本質論的な宗教理解を、鈴木大拙(鈴木1972)らにならって「スピリチュアリティ(霊性)」という術語によって行っている。筆者の最新の定義によれば、「スピリチュアリティ」とは、固有の身体実践や社会的行為によって形成される自己超越意識(通常意識を超えた魂・霊的次元の諸意識段階で、自己が否定され、絶対的存在となんらかの形で一致した場所的個としての意識)であり、その意識に対応した、生死の意味(生きがい)やホリスティックな世界観、共生的社会(環境)として段階アスペクト的に体験・表出されるものである。」(樫尾2012:27)

(3)本山氏は、宗教学批判は行っているものの、自己の研究を「宗教学」と呼んでいるわけではない。後述するように自己のヨーガや止観の実践による宗教体験を、主としてインド哲学や神智学の術語を専用しながら言語化し記述している点からすると、さしあたり「神学」あるいは「本山神学」と呼んでおくのが適切であろうかと思われる。しかし、これも後述するように、個別特殊な宗教体験ではあるものの、その自己の宗教体験を他の宗教伝統と比較する試みや、諸宗教の比較から普遍宗教論を展開している点からすれば、実質的に宗教学的かつ宗教哲学的試行を行っていることを指摘することができるので、ここでは「宗教学・哲学」という呼称で本山学をさしあたり広く押さえながら、その可能性を摘出したい。なお、本山氏ご本人は、「神学」ではなく「哲学」と自称しているので、呼称の自他一致という点からもそのような呼称を使用することにしたい。

(4)ローティは言語論的転回について次のように述べている。「輓近の哲学におけるいわゆる『言語論的転回』の要点は、われわれはかつてアリストテレスとともに必然性は事物に由来すると考え、やがてカントとともにそれは心の構造に由来すると考えたのに対して、今ではそれが言語に由来することを知っている、ということにあると考えられている。しかも、哲学は必然的なものを捜し求めねばならないのであるから、哲学は言語論的にならざるをえないのである。」(ローティ1986:118)以下の言語論的転回に関する記述については、特に石黒1993および星川2011を参照した。

(5)この点を最初に明確に指摘したのは、ウィルバーである。ウィルバー2000:第二部参照。理解を助けるために、ポストモダニズムの中の宗教の事例を三つ挙げておこう。たとえば、前近代には身心一元論に基づいた脱世俗的実践であったヨーガや瞑想の社会文化的位置づけは、近代では宗教的実践となり、ポストモダンにおいては、健康やリラクゼーションための実践とみなされるようになった。こうした変遷は、要するに、時代によって宗教的か否かが社会文化的文脈に依存して変化しているということを示している。また、世界救世教は、戦前から戦後にかけてその自称を何度も変えた(昭和10年 大日本観音会→昭和11年 大日本健康教会→昭和22年 宗教法人日本観音教団→昭和23年 宗教法人五六七(みろく)教会→昭和25年 宗教法人世界救世(メシヤ)教→昭和32年 宗教法人世界救世(きゅうせい)教)が、これは社会政治的状況に応じて、健康か宗教かという具合に自称が変化した事例である。これはすなわち、教団の自己認識と社会政治的戦略という社会的文脈の影響によって教団アイデンティティが構築されていることを示している。さらに、同じく世界救世教や真光などの手かざし系教団における、手かざし実践の解釈は、立場、思想によって、神の力とされる見えない光=霊線が信者の身体を媒介として伝達されるという霊界思想、道教的な気功術と中国医学に基づく身心論、真皮の中を流れる体液を通る電気として説明する電気生理学的な科学的説明、あるいは手かざしの際に信者間で形成される感情的身体的共同性という社会学的説明など、多様な形態をとる。「現実」はこのような多様に構築され、特権的な視点はなく、どれも恣意的であるということの典型的な事例である、と言えるだろう。

(6)星川によれば、ウィトゲンシュタインの宗教的私的言語論の骨子は、以下の通りである。宗教的私的言語には、「その真偽や正しさの客観的・公共的な規準が存在しない」(星川2011:80)。それゆえ、言語ゲームから私的体験は抜け落ちる。かつ、「宗教体験それ自体とそれを表現していると思われる言葉のあいだには、対応関係が成立しているとは言えない」(同書:87)のである。

(7)宗教体験の語りである体験談テクストを読むことに関しては、次の三つの方法論的立場を考えることができるだろう。1.体験談テクストは、当事者の「体験」を言語的に、直接的に表現したものである。それゆえ、この内容を解釈、分析することによって、当事者の「体験」を確定し、理解することができる。2.体験談テクストは、当事者の「体験」を言語的に、間接的に表現したものである。それゆえ、当事者の「体験」に直接触れることはできないまでも、おおよそのところ、当事者の「体験」を理解できる。(他者にはなれないのだから、通約不可能性を主張しても意味がない。)3.体験談テクストは、当事者の「体験」そのものを言語で表現したものではない。それゆえ、「体験」そのものの内容を研究者は知ることはできないし、それを問うことは論理的に無意味である。それゆえ、研究者は、そのテクストがいかが書かれているかという文体(形式=テクストの身体性)を解釈、分析することを通して、テクストとしてそこに定着されている思考や思想を明らかにすることができるだけである。じっさい、ほとんどの宗教研究者は、1.あるいは2.の立場を選択して研究している。なぜなら、方法論的なイノヴェーションがなければ、3.の立場では研究がなかなかできないからである。また、他者の体験そのものを直接的に知るには他者になるしかないのであって、そんなことは絶対にできないのだから、こうした方法論的吟味にはあまり意味がないと考えられるからでもある。少なくとも、通常意識の状態では自己が他者になれることはありえないので、こうした主張は賛同を得やすく、そうした方法的態度はこれまで「共感的理解」という術語で捉えられてきた。

(8)この方法によって神秘主義における体験と言葉に関する代表的研究を行ったのは、de Certeau1987と鶴岡1992, 2000である。また、深澤英隆は、言説そのものの解釈方法として、超越的存在に関する存在記述と、当事者の個別の体験に関する体験記述とを理念型的に分類し、体験解釈と存在解釈を行なう神秘体験研究の方法を提起している。深澤1992, 2006参照。

(9)プラクシス理論では、「語らなければ体験を自己理解できない」から、「語らなければ体験はない」、さらに「心(内心、観念)は自己の外部にある」という形で主張が先鋭化されている。また、文化言語理論においても、「言語は体験に影響を与える」から、「言語が体験を生み出す」という帰結を引き出し、前者と同様に、言語論的極端主義的の観を呈している。

(10)言語が素朴に観念を表現するというサルトル的な言語道具観が信憑性を持たなくなり、ポストモダニズム的な言語論的転回が生起したという事態を、筆者は「二十世紀における記号空間の成立」という表現で理解している。ソシュール、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ローティという思想の横断線が示しているのは、言葉の指示対象との一体性が徐々に稀薄になっていく社会文化的な過程であり、最終的に、両者の関係性は恣意的なものであり、文化的に相対的なものである、という認識に到達した。こうした過程の背景には、グローバル化による他文化知識の流入による自文化の相対化という事態や、動力機関による豊かさの出現によって、物のありがたみ、希少性の観念が弱まり、このもの性が減縮していったという事態などを仮説的に想定することができるだろう。この百年余の間に、”Anything goes / anyone goes.”とでも表現できるような大きな文化意識の不可逆的な変容があったのである。それは、人類史上、言葉と物との距離が最大化したということであり、それはまた自他へ(として)の「不信」の最大化でもあったと思われる(フーコー1974参照)。

(11)このような意識の本質的分節の働きについての詳細な記述については、井筒1992が大いに参考になる。

(12)この「実践論的転回」という術語は、倫理学や教育学などの人文科学においても近年使用されているとともに、文化人類学においても「実践宗教」などの術語において「実践性」が重視されていることが知られているが、ここでは紙幅の関係上、隣接諸科学における類似術語との対比による意味確定や概念深化については別稿を期さねばならない。

(13)たいへん興味深いことに、本山は、仏陀の教えを、ある種、パトロジー的に、まさに釈迦の個人史的体験とその解釈というセットから読んでいる。たとえば、釈迦の出家の理由を、叔母に育てられたことによって非常に内にこもる性格になったことに見ている。また、それゆえ愛に飢えていたから慈悲の教えを重要視するようになった、あるいは、母の死後の孤独から苦を生み出す欲望に対する関心が生まれたので、色界の一つにすぎない欲界を独立した世界として措いたと解釈している。

(14)「開かれた宗教」の概念については、樫尾2010を参照のこと。

 

参考文献

石黒ひで 一九九三 「『言語論的転回』とはなにか」、新田義弘他編『岩波講座 現代思想4 言語論的転回』岩波書店、八七―一一六頁.

井筒俊彦 一九九一(=一九八四) 『意識と本質』岩波書店

ウィルバー、ケン 二〇〇〇 『宗教と科学の統合』、吉田豊訳、春秋社(Wilber, Ken 1998 The Marriage of Sense and Soul: Integrating Science and Religion, Random House.)

樫尾直樹 二〇一〇 『スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性』春秋社

樫尾直樹(編) 二〇一二 『文化と霊性』慶應義塾大学出版会

鈴木大拙 一九七二(=一九四四) 『日本的霊性』岩波書店

鶴岡賀雄 一九九二 「宗教学者は神秘家のテクストにいかに接近するか」、脇本平也・柳川啓一編『現代宗教学2 宗教思想と言葉』東京大学出版会、八七―一一三頁.

          二〇〇〇 『十字架のヨハネ研究』創文社

深澤英隆 一九九二 「『体験』と『伝統』―近年の神秘主義論争に寄せて」、脇本平也・柳川啓一編『現代宗教学1 宗教体験への接近』東京大学出版会、一一五―一四二頁.

          二〇〇六 『啓蒙と霊性』岩波書店

フーコー、ミシェル 一九七四 『言葉と物』、渡辺一民・佐々木明訳、新潮社(Foucault, Michel 1966 Les mots et les choses : une archéologie des sciences humaines, Gallimard.)

星川啓慈 二〇一一 『宗教と<他>なるもの―言語とリアリティをめぐる考察』春秋社

本山一博 二〇〇九 「解題」、本山博『本山博著作集5 カルマから解脱へ』宗教心理出版、六二九―六六三頁.

本山博 二〇〇八a 『本山博著作集3 現代における密教的修行』宗教心理出版

    二〇〇八b  「宗教の進化と科学―世界宗教への道」『本山博著作集4 霊的進化と宗教』宗教心理出版、一二七―三三八頁.

            二〇〇九a 「呪術・オカルト・隠された神秘―心の成長と霊の進化の宗教学」『本山博著作集5 カルマから解脱へ』宗教心理出版、一七七―三五六頁.

              二〇〇九b 「地球社会における生き方と宗教」『本山博著作集6 地球社会と宗教』宗教心理出版、一五―一六〇頁.

    二〇〇九c 「場所的個としての覚者―人類進化の目標」『本山博著作集7 修行者から覚者へ』宗教心理出版、一九―二四四頁.

    二〇〇九d 「人間と宗教の研究―地球社会へ向けて」『本山博著作集7 修行者から覚者へ』宗教心理出版、四二五―五六八頁.

    二〇〇九e 「密教ヨーガ」『本山博著作集』宗教心理出版、pp.

ローティ、リチャード 一九八六『哲学の脱構築』、室井尚他訳、御茶の水書房(Rorty, Richard 1982 Consequences of pragmatism, Harvester Press.)

de Certeau, Michel 1987 La Fable mystique : XVIe-XVIIe siecle, Editions Gallimard.

 

 

article 8: 実験的宗教間対話の課題  樫尾直樹

樫尾直樹・本山一博編『宗教間対話のフロンティアー壁・災禍・平和ー』国書刊行会、pp.401-433.所収)

 

はじめに

 

 本稿は、本書に収録されている、連続シンポジウム、シリーズ「いま、なぜ宗教間対話なのか」の三つの宗教間対話の試みを対象として、その運営・内容・展開を中心に分析しながら、宗教間対話のアスペクトと壁、問いと設えに関する諸問題、および進行の諸問題について考察し、宗教間対話の抱える諸課題について明らかにすることを目的としている。

 

1. 「壁は乗り越えられるのか?」

 

 1−1.四つの論点

 

 この宗教間対話は、諸報告・発題の後にラウンドテーブルとして行なわれた(1)。

 議論は多岐にわたっているので、容易に要約を許さないが、重要な論点は、大別して四点—1.壁の諸相、2.目的性の二類型、3.求道としての宗教間対話、4.比較行論の可能性—に整理できる。以下にそれらの要点をまずまとめておきたい。

 1.壁の諸相

 壁を乗りこえるためには、まず壁は何なのかを知らねばならない。議論の中で指摘されたものとしては、1.対話的態度の前提としての自宗教の絶対化、2.教団宗教という、「宗教」の狭い捉え方、3.個人ではなく、教団を背負うという態度、4.平和や人権といった「言葉」に逃げる、5.特定宗教のジャーゴン(専門用語)の呪縛、6.「体験」の絶対性による内閉化、7.教団内の近親憎悪、8.対話動機の個人的内省の無さ、などがあった。

 2.目的性の二類型

 議論された宗教間対話の目的性については、二類型に大別できる。ひとつは内向的であり、いまひとつは外向的である。通常、宗教間対話は、それを媒介、場として、相互理解、霊性交流、協力が促進されるという外向的目的を持っている。しかし、それと同時に、その過程で実践主体の意識に起こっている内向的な事態もある。それは「宗教」の普遍的理解である。単に共感的な相互理解に留まらず、「宗教」とは何かという本質論的問いに対する応答である。別言すれば、個別宗教ではなく、普遍的な「宗教」を布教する、という社会的役割を担う可能性を孕んでいるのである。

 3.求道としての宗教間対話

 他者の宗教理解を通して、自己の宗教の理解が深まる。他宗教者との交わりや祈りや行などの身体実践を通して、自己が成長し、変化する。こうした他者への自己の開かれこそが、宗教間対話実践の目的であり、動機として前提とされる望ましい態度でもある。この点は、ほとんどの発題者に共通している。自己成長、自己開示、自己の「壁」が融けること、破れること。「人間ではとけない苦しみ」「生死で大切なもの」、こうした問いに対して答を投げかけるものが宗教であるとすれば、宗教間対話はまさに、人間のそうした本来的欲求に応えるものであり、それこそが「求道」と呼ばれるものである。

 4.比較行論の可能性

 教えの内容に深く踏み込んだ対話がそれほど容易でないことは、各発題者が痛切に自覚しているところである。そこで世俗的な特定課題を協力して解決しようとする宗教協力の重要性が指摘されるが、「言葉に逃げる」のではない方向性もある。それが、霊性交流を先鋭化させた、他宗教の身体実践を相互に行なってみる「宗教間実践」である。この点については多く議論されたわけではないが、その比較行論的可能性が指摘されたことはそれ自体、宗教間対話論としてはきわめて意義深いことであろう。

 

 1−2.フロアとの質疑応答

 

 以上のようなラウンドテーブルの後、議論をフロアに開いて、質疑応答が行なわれた。様々な個人的背景から、たくさんの質問がフロアの参加者から投げかけられ、議論はあつい熱を帯びて進行した。

 その中でも討議の流れから重要と思われるものを三つ取り上げる。

 1.自己相対化の視点

 プロテスタント牧師で宗教学者の川島堅二氏(恵泉女学園大学人間社会学部教授)から、宗教間対話が自己相対化作用をもたらすものであるとするならば、他宗教理解の三類型―排他主義、包括主義、多元主義―のうちの多元主義となるのか、もしそうだとすれば、曹洞宗や立正佼成会における多元主義的思想/実践とはどういうものなのか、という質問がなされた。

 それに対して、曹洞宗の峯岸氏は、求道としての宗教間対話とは、相対的絶対性の中での対話(万教同根を自分で確かめる方法)であり、一種の希望的な多元主義であると応答した。また、立正佼成会の鈴木氏は、その場合の自己相対化には、自己を無化する方向性と他者を包み込む方向性があり、この点ではあえて言えば多元主義と言える、と応答した。

 2.一神教の不寛容傾向

 カトリック信者である上田氏から、小原氏に対して、一神教は多神教よりもその神観念によって不寛容の傾向性が比較的高いのではないか、という質問がなされた。

 それに対して、小原氏は、アニミズムという多神教的傾向性の最も高い信仰を持っている人がきわめて寛容性が高いかと言われると、そうではないこともあるので、一概に一神教に不寛容の傾向性が高いとは言えない、と応答した。

 3.宗教間対話の目的性

 大本の宣伝使で、医者である加藤眞三氏(慶應義塾大学医療看護学部教授)から、宗教間対話の目的とは何か、と改めて問い質された。終末期医療の現場にいる加藤氏からすれば、こうした「サロン」的な討議自体どのような社会的意味があるのか、宗教の使命とは本来、救済ではないか、という趣旨である。

 それに対して、「宗教」の本質探求および「宗教」の布教(本山氏)、日本の宗教の無力さの自覚(鈴木氏)、対話の無意味性は教団を開く(峯岸氏)、宗教と医療との恊働(小原氏)、宗教者と市民が共に対話を行なうことは他へ開かれる契機となる(高柳氏)、という応答があった。

 

 

 1−3.宗教間対話実践と壁の四つの側面

 

 さて、以上のように、第一回シンポジウム「壁は乗りこえられるのか?—対話の現場から」は展開された。

 宗教間対話のあり方を議論した、言わばメタ宗教間対話としての本シンポジウムを回顧して改めて実感されるのは、宗教間対話はなかなか一筋縄ではいかない、ということであろう。これはたしかに、宗教間対話の実践者たちのほとんどが口をそろえて嘆息する言葉である。固有名を持った絶対的存在者、固有の神話、儀礼の解釈などなど、教義レベルでの対話はなかなか共通点を見いだすことが難しい。それゆえ、教えの内容に踏み込んだ深い対話は原則不可能であるという結論に至り、地雷除去などの平和活動を中心とした宗教協力しか、広義の宗教間対話の道はないと納得することになる。

 しかし、果たして、教えや実践の内容に踏み込んだ深い対話は不可能なのだろうか。ここでは、本シンポジウムで議論された諸点を位置づけ整理し、本シンポジウムの果実として、宗教間対話実践の一般理論モデルを仮説的に提起し、「壁」を確定することによって、宗教間対話の可能性と不可能性を示しておきたい。

 

  1−3−1. 宗教間対話の四つの実践類型=アスペクト

 

 本シンポジウムから了解されるのは、宗教間対話実践の四つの側面である。その四側面をよりよく理解するために、X軸に内向的(−)—外向的(+)、Y軸にトランス(−)—インター(+)で示される座標を描く。すると、各象限にその四側面を整合的に配置することができる。1.第一象限:共同実践、2.第二象限:相互理解、3.第三象限:普遍的理解、4.第四象限:求道、である(図1参照)。

 1.第一象限:共同実践

 共同実践には、世俗的問題の解決を目指す恊働的活動としての協力と、宗教的生活を共にしたり、共に祈りや行といった身体実践を行なってみたりする霊性交流としての相互実践がある。

 2.第二象限:相互理解

 言葉による対話を通して、世界観の共感的、知的な相互理解である。

 3.第三象限:普遍的理解

 対話による相互理解が、両対話者とその宗教を架橋する普遍的一般的理解に深化したものである。この普遍的理解には、自宗教の深い理解としての宗教的理解と、比較を通して宗教の普遍性に迫る宗教学的理解の二類型がある。

 4.第四象限:求道

 共同実践が深まり、異なる諸宗教の本質的相同性(相似性)がより鮮明に理解されるようになると、再び、自宗教の生活=行に専心するとともに、見かけ上は社会的世俗的活動と見なされるような掃除やその他の諸活動が、その遂行過程において超社会的活動として自覚されるようになる。

 以上が、宗教間対話の四つの実践類型である(2)。座標の左側、すなわち第二象限と第三象限は、信念の系であるのに対して、座標の右側、すなわち第一象限と第四象限は、行為の系である。本シンポジウムで明らかになった、目的性の二類型の、内向的はこの信念の系、外向的はこの行為の系に相当する。また、さらに、内向的信念系は、第二象限の相互理解から第三象限の普遍的理解へと深化するわけだが、この過程が宗教間対話の常道的な展開過程のひとつのアスペクトであり、それは同時に、外向的行為系の、第一象限の共同実践から第四象限の求道へというもうひとつの展開過程アスペクトを伴っている。いわば、両アスペクトは文字通り、宗教間対話の実践過程の両輪なのである。

 このような座標を基に考えてみれば、日本の宗教間対話に対するサロン批判は、対話が第二象限の相互理解に留まり、第三象限の普遍的理解に展開しないという事態を鋭く指摘していることになる。現場報告の三発題者が、サロン批判を自己受容し反省したという事態の動態的背景には、相互理解から普遍的理解へと不断の努力を重ねなければ、実現しない宗教間対話の自己規律、自己鍛錬という厳しい側面を伺い知ることができよう。この点は、共同実践から求道へという展開過程においても当てはまることである。

 ここで急いで付け加えるならば、こうした相互理解から普遍的理解へ、共同実践から求道へという宗教間対話の深化過程の二つのアスペクトを十全に遂行するために必要な知見とは、ラウンドテーブルにおいても質疑応答においても問題となった、自己相対化という契機に関するものである。自己相対化とは、おそらく単に多元主義なのではなく、各宗教の教え(信念)と実践(行為)の個々の言説や術語の指示する意味内容と、諸過程の個々の効果がいったいどのようなものなのかについて点検、吟味する作業であるはずである。

 仮にそうであるとすれば、そうした作業の別名は、宗教学における比較、あるいは比較宗教学をおいて他ないであろう。この意味において、宗教間対話の実践過程とは、宗教学のそれとパラレルな関係にあると言えよう。発題者のほとんどが共通して自覚していたように、宗教間対話が求道として、自己を他へと開いていく過程であるとすれば、その初発の起動時には常に宗教学的作業が必要なのである。この点からすれば、宗教間対話に宗教学者が参加すれば、その貢献するところはきわめて大きいと推察される。もちろんそれは現在の宗教学の到達地点からすれば、内向的信念系に限定されるものではあるが、逆にうがって言えば、宗教学には外向的行為系の展開過程—たとえば、ラウンドテーブルで指摘されたような比較行論—が要請されていると主張することも可能であろう。

  1−3−2 「壁」の四類型

 

 比較宗教学の知見が活用されないことは、宗教間対話の成就を阻む要因のひとつとなるだろう。ここではさらにこの点を、シンポジウムの成果を踏まえて展開し、宗教間対話を阻害する「壁」の内実について整理してみよう。

 「壁」には四つの類型があると考えられる。3−1と同様に、座標を活用してそれを整理する。X軸に内面(−)—外面(+)、Y軸に集合(−)—個人(+)で示される座標を描く。すると、宗教間対話を阻害する「壁」は、1.第一象限は個体性、2.第二象限には自己意識、3.第三象限には自宗教内対立、4.第四象限に他宗教排除/自宗教絶対化、というふうに四類型を配置することができる(図2参照)。

 1.個体性は、人間主体の社会的な存在論的規定であると同時に、その影響によって自他を分ける意識が生成する肉体的物理的、それゆえ本能的源泉である。

 2.自己意識は、まさにその自己と他者とを分ける意識であり、その意識が我々の意識の通常状態を支配している。この意味で、個体性と自己意識は表裏一体であり、私たち人間の主体(形成)的基底を成している。

 3.自宗教内対立は、同じ宗教内の異なる宗派間や、同一宗派(宗教)内の派閥や個人間での、内向的信念系や外向的行為系の解釈や実践の仕方の差異から生じるものであり、直接的に宗教間対話を阻害するものである。

 4.他宗教排除/自宗教絶対化は、同時に生起する。自宗教の絶対化による他宗教排除、他宗教排除の根底にある自宗教の絶対化であり、いずれも自己相対化の契機を妨げるものであり、極端な場合には葛藤から紛争や殺戮、戦争が起こる可能性が少なくない。これも直接的に宗教間対話を著しく阻害する。

 以上のように、宗教間対話を阻害する壁は、宗教内外のいずれにおいても、排他性と自己絶対化であると言える。ただし、上述したように、それは肉体と言語を持つ人間の存在論的規定と深く絡み合っており、それゆえ、世界の諸宗教がその軛から逃れようと様々な身体実践や教えを開発してきたのである。相互理解から普遍的理解へ、共同実践から求道へ、という宗教間対話の深化過程を阻害し、安易なサロン的相互理解や共同実践(=ただの仲良しグループ)に留め置く原因もまさに最終的には、こうした無意識的な自己絶対化と排他性に起因していると考えるのもまたゆえ無しとしないであろう。本シンポジウムが私たちに示唆しているのはまさに、以上のような点ではないだろうか(3)。

 

 

 

2 「信仰と災禍―その不条理を問う」

 

 2−1.宗教間対話における冒頭の問いの設定の重要性

 

 宗教間対話に関するメタレベルの議論を展開した、第一回「壁は乗り越えられるのか」に対して、第二回「信仰と災禍―その不条理を問う」では、3・11を承けて、現在もっとも切実な問いである「信仰と災禍」をテーマに設定することによって、じっさい具体的に宗教間対話を行うことに主眼が置かれていた。

 各対話者はそれぞれの現場で3・11以降の世界を生き、宗教的実践をおこなってきた方々であり、そうした方々による実のある血の通った対話がどのように展開されるのかを具に観察することによって、これからの宗教間対話の課題が明らかになり、展望が切り開かれるのではないかという熱い期待を込めての開催であった。

 私の個人的な全体的な印象は以下の通りである。

本宗教間対話は、それになり白熱した対話になったという印象はあるが、各対話者の間での議論が深まったかというとそうではなく、お互いに議論はすれ違い、なかなか噛み合わなく、不完全燃焼していたというのが率直な私の感想である。そして、その原因は、ただ一つの点に帰着すると推察される。

その唯一の原因とは、対話冒頭の問いの立て方にあったのではないだろうか。

本宗教間対話では、司会者が、次のように各対話者に質問した。すなわち、

 

「信仰があると災禍から守られるか、あえてyesかnoで答えてください」

 

という質問である。

こうした問いは、答えにくいにもかかわらずYesかNoであえて答えを求めるという点でインパクトがあり、一見好ましい問いの立て方であるというふうに思われるかもしれない。むちゃぶり質問は聴衆にとっては、各対話者がいったいどんな答えをするのだろうと思わせるスリリングな問いではある。

しかし、じっさいはあまり適切な質問とは言えなかった。なぜなら、各対話者の応答からも明らかなように、論理的に考えれば、このような二者択一的質問に対しては、宗教者は、自分で理解している限りでの教義の内容を開陳することによってその問いに答えるか、あるいは、きわめて答えにくい問いでありケースバイケースでもあるから、その問いに直接的に答えるのではなく、むしろその問い自体を疑問に付すかのいずれかの選択をしなければならないからである。後者に関しては、その対応には複数の可能性が想定され、じっさいの対話の場面でもその複数の可能性が披瀝された。たとえば、ひとつは、「信仰」という概念自体を問い直すこと、あるいは、問い自体の無意味性を主張することなどが有効な選択肢としてある。

アカデミックな世界ではシンポジウムのときに、周りの登壇者との間に有意で優位な差異を聴衆に印象付ける方法として、大別して二つの方法があると一般的に知られている。ひとつは、議論の展開や将来的な予測の言明においては常にペシミスティックであること(4)であり、いまひとつは、問いそのものを疑問に付し、問いをずらすことによってポレミカルにふるまうことである。

宗教間対話はいわゆるアカデミズムではないが、対話者は研鑽を積み、それを言語化することのできる碩学が少なくないので、問い自体を疑問に付すような論争的な議論展開の可能性は十分にあり、じっさい本宗教間対話ではそのような展開を見ることとなった。誠実に問いに向き合おうとしたときの、じつにまっとうなスタンスである。

しかしながら、それでは、3・11以降の終末論的な世界の中での、切実なテーマである「信仰と災禍」に真正面から取り組むことはできなくなってしまう可能性がある。それゆえ、最初の問いは以下のように問われなければならなかった、と私は反省し、考える。

 すなわち、たとえば、

 

「3・11の大地震で家族を失った人がここにいたとして、その人が、信仰があれば災禍から守られたのですか、と尋ねたとき、皆さんはその人にどう応答しますか。」

 

あるいは、

 

「信仰がなかったから災禍から守られなかったのですか、と被災者の方から尋ねられたとき、皆さんはその人にどう応答しますか。」

 

という具体的なシチュエーションを設定した臨床的な問いである。

このような「信仰と災禍」に関わる具体的な問いを発すれば、概念論争や問いの無意味性の指摘が出されることはなかった、と思われる。つまり、このような問いから出発すれば、クライアントに対する各宗教者の応答という、各人の信仰に基づいて発せられる語りの説得性のコンペティションとしての「宗教間対話」が展開されることになる。この意味では、じっさいにテーマに沿った切実な現実的な問いかけができるクライアントに参加してもらってもよかったかもしれない。こうした実験的な対話の試みは、諸宗教相談室の響宴とでも名付けられるだろうか。

以上のような工夫をあらかじめしなければ、秀逸な宗教者は、ある意味でメタレベルの言語ゲームを駆使しうるレトリックの達人でもあるから、今回の対話で展開されたような語りが語られることになる。たとえば、それは次のような発言に端的に表出されている。

 

「私は宗教者ではない。信仰者である。」

「信仰の定義にもよるが、宗教では救われない。宗教を超えたときに救いがある。」

 

というような発言である。

「宗教」を、閉じた宗教、狭く浅い宗教と批判的に捉えた場合、開かれた宗教、広く深い宗教を標榜する(傑出した宗教者と評価される)宗教者は、「宗教」の超克に価値を置くことが少なくない。現時点での自分のおかれた状況を乗りこえようとするためには、それを受け止める超越的な位置から現在の自己とそのあり方を眺める場が必要である。それゆえ、宗教者は、二重の意味で―自己の世界観として、そして現実への対処の仕方として―、超出的レトリック言説を用いるのである。宗教が超越性の次元に深く関わる所以である。

今回の宗教間対話の企画を準備するにあたって、テーマ、人選はもちろん、具体的な議論の展開の予測については、日本宗教ネットワーク懇談会のメンバーは相当の議論を重ねてきたが、「信仰と災禍」というテーマを冠した対話の冒頭の具体的な質問表現については十分な議論をしていなかったのが、一番の原因であろうかと思われる。決して逃げることのできない切実で具体的な質問表現、具体的な状況を設定した実践論的な問いを、対話の一等最初に、冒頭で発することがいかに重要であるか、ということがわかった(5)。

 

 2−2.具体的なタイトルをつけること

 

 以上の冒頭の問いの立て方に関連して、さらに課題として浮上してくるのは、宗教間対話シンポジウムのタイトルのつけ方である。

 「信仰と災禍」というテーマの文言は、端的に簡潔に表現されているので、たしかにシンポジウムのタイトルにはふさわしいものであったであろう。しかし、タイトルをあまりにも抽象的にしてしまったので、インパクトが弱くなったと同時に、概念論争が起きてしまったのではないだろうか。

 これは実は企画段階から議論の俎上に上っていたことではあったが、より具体的に、たとえば、「信仰があれば災禍から守られるのか?—各宗教に問う」のほうがよかったのではないかといま静かに再考している。あるいは、「信仰と災禍—その不条理を問う」はシンポジウム全体の題目にして、第二部の対話は、少なくとも、「信仰があれば災禍から守られるのか?—各宗教に問う」にするべきではなかっただろうか。

 また、加えて、上述したような問いの否定やずらしの発言があったことにも原因があるが、このような発言が出たのも、実践論的問いを二部のタイトルや実際の対話現場でしなかったことによるのではないかと、私は考えている。

 「災禍」を具体的な震災とせずに、いきなり死の問題に馳せ上がった方がおられたが、これも以上のようなテーマの具体的な文言、表現の設定の仕方と深く関わっており、この点についてはじっさいの対話の途中で、できれば誰かが議論の中で指摘すべきであった。

 

 2−3.対話の采配―トピックの展開・世界観問題・司会者役割―

 

 本宗教間対話の副題は、「その不条理を問う」とした。信仰があれば災禍から守られるのか、信仰がなかったから災禍から守られなかったのか、というまさに「不条理」をどのように受け止めたらいいのか、ということを私たちひとりひとりが自分の問題として、そして世界の問題として考えること、対話することが大切であると考えたからである。

 特に宗教は、神仏といった超越的存在と人間とのさまざまな関わりを軸として展開されるので、不条理を受け止めることと、神仏に出会うこととの関係性についての対話はきわめて重要である。

 本対話では、司会者が、この二つの言説に横断の線を引いて、諸宗教の専門用語(ジャーゴン)を超出しようとした。こうした司会者の問いかけはトピックの展開を見定めて議論を深める点でたいへん適切な采配であったと考えられる。しかし、この「受け止め」問題を、それに関する高柳氏の発言後すぐにテーマ化して議論したほうがよかったのではないだろうか。

そのため、高柳氏の「不条理を受け止める」ことについての他の論者の応答が明確には得られなかった。特に本田氏と渡辺氏は社会運動実践が、千勝氏は除霊的祈祷実践が、行の中心にあるので、「信仰を実践する」手前での心の受容的なあり方についてあまり関心が直接的に向かない傾向性が観察された。別言すれば、祈祷除霊神道の心的内向性、およびカトリックや金光教の心的外向性の対照がきわだっていたように思われる。

 このように議論が噛み合わずに、概念論争や教えの紹介に終止した場合その場で議論の交通整理をする必要がある。また、きわめて本質的なトピックの議論が、結果的に最後になってしまって、さあこれからというときに時間切れとなってしまったのはきわめて残念なことであった。いずれも司会者あるいは研究者役割の重要性を物語っている。

 さらに話者の前提となっている世界観の差異について、どのような橋渡しができるのか、という世界観の共約可能性の問題が露呈したこともたいへん興味深いものがあった。それはたとえば、高柳氏のように、ペシミスティックで実存的な不条理の哲学をもつ人とそうでない人とでは、また、霊的存在の実在性に軸足を置く霊界思想をもつ千勝さんのような人とそうでない人とでは、根本的世界観において大きな齟齬が生じるのは一目瞭然である。

 そうして、こうした世界観の相違は、各人の体験の相違に相関しており、ウィトゲンシュタインが言うように、他者の体験を同一性の原理をもって同じように体験することができなし、他者の体験を私的言語によってしか表現できないという点からすると、上記のような両者の通約可能性はないと言わざるをえない。

ただし、これには前述したように、複数の具体的な問いを用意しておくことで多少解決できるかもしれないので、正しい問いを立てるということに関する今後の課題としてここに書き留めておくことにしよう。

 以上、2,3のイッシューについて言及してきたが、いずれにしても対話の進行の采配がいかに大切であるかが理解される。通常、采配役割をする人を「司会者」と呼ぶが、このことについて少しく考えてみたい。

 管見によれば、今回の宗教間対話を振り返って思うのは、宗教間対話に個人的に関心を持つ宗教者による対話では、純粋な司会者役割者は不必要ではないか、ということである。そうした場合は、概念と話題の交通整理をする宗教学者が補助的に入れば司会者は必要ない。

しかし、今回の対話では、宗教間対話に対するモチベーションの温度差があったように思われるのは私だけではないだろう。今回のような対話の場面では、やはり、論点を整理して、さらに深めていくための司会者役割が必要であったと考えられる。これは純粋な司会者でなくてもよい。対話者の中で司会者役割を果たせる人(できれば複数)がいれば事足りるのではないだろうか。先にふれたように、学者で宗教者という対話者が加わっていることは、対話を円滑に深化させるのに必要なことではないだろうか。

 

 2−4.求道と全体討議

 

 前述した、第一回「壁は乗り越えられるのか?」の考察をふまえ、求道の四局面―瞑想、儀礼、対話、奉仕―の座標に、今回の各対話者を以下のように位置づけることができる(図3参照)。

 1.瞑想(ワンギーサ氏):規範

 2.儀礼(祈り、祈祷、祓い、供養)(千勝氏):霊界

 3.対話(高柳氏):自己の心的深化

 4.奉仕(本田氏、渡辺氏):社会

たいへん興味深いことに、各対話者の発言は、それぞれの局面を先鋭に示し、その特徴を語らしめている。テーラワーダのワンギーサ氏は、瞑想的求道であり、規範的な発言が、神道家の千勝氏は、祈祷や祓いといった儀礼的求道であり、霊界思想をベースにした発言が、浄土真宗の高柳氏は、対話的求道であり、自己の心的深化に力点をおいた発言が、そして釜ヶ崎を中心として救済活動を行っているカトリックの本田氏と金光教の渡辺氏は奉仕的求道であり、社会貢献を基盤とした発言が、それぞれの傾向性として観察された。

 本来、この四つの局面はアスペクトであるから、同時に存在するものであり、それぞれの局面はその意味で往還可能性と他アスペクトへの転写(転移)可能性があるものだが、それぞれの宗教者には、いずれかの足場=リアリティがまずあって、そこが「ひとつの立場」を形成しているのだということが理解される。可能ならば、それら四つのアスペクトがどのような関係性をもって、それぞれの宗教者の実践の中で同時に生きられているのか、ということが開陳され、討議の中心になれるような対話の設えが求められるところである。

 対話の設えに関連して言えば、全体会議はたいへん活発であったものの、いくつかの課題が残されるところとなった。

今回の全体会議は、サンデル先生の白熱教室で知られる、公共哲学者の小林正弥氏(日本宗教ネットワーク懇談会世話人)に司会を託したので、対話型講義の手法を使って、フロアー全体を巻き込んだ、まさに白熱したものとなったことは大きな収穫であった。

ただ、若干、対話型講義の部分が長くなってしまったきらいがないわけではない。個人的には、全体的な傾向性を挙手と若干の発言から把握した後、登壇者への質問という形で、フロアから発言を求めた方がよかったのではないかと考えている。また、昨年の全体討議の経験からすると、おそらくそうした希望が多かったのではないだろうか。

加えて、第二部で話し足りなかった点や議論が十分に行われなかった点、たとえば、「信仰があれば災禍から守られるのか」という問いについて、登壇者からの発言を求める時間を長くしたほうがよかったのではないかと思われる。

すなわち、1.議論が足りなかった点を指摘して、登壇者の意見を求める、

2.全体的傾向やコメントの把握、3.フロアと登壇者との質疑応答、4.議論の後、最後に一言ずつ登壇者より発言、という流れがよかったのではないだろうか。

 

 

3 「宗教と平和―今、この危機を乗り越えるために」

 

 3−1 本宗教間対話シリーズの目的の確認

 

 第二回目の宗教間対話において、全体討議の重要性が増したことと、全体討議が対話型講義の形式をとることになったことは、聴衆を巻き込んだシンポジウムという点では有意義であったが、その半面、登壇者同士の深い対話の比重と私たちのそれに対する重要性の認識の低下を誘発することにつながったのではないだろうか。

 本来、本宗教間対話のシリーズは、登壇者が個人の信仰の内容に基づいて対話し相互に理解することの可能性を探求するものである。この点からすると、全体討議はいわば聴衆のモチベーションをあげるための補助的な場であるから、別段なくてもいい。聴衆は登壇者たちの対話を聞いて、発見があればそれでよいのではないかと、私は考える。

 

 3−2 第3回シンポジウムの進行の諸問題

 本シリーズの以上のような本来的な目的からすると、第三回シンポジウム「宗教と平和―今、この危機を乗り越えるために」にはいくつかの根本的な問題がないわけではない。

 この宗教間対話を静かに反省してみるに、理想的には、

1.「家族に赤紙が来たら、あなたはどうしますか」という具体的な問いをひとつ登壇者に投げかけて、それぞれ答えていただく。

2.各登壇者の答えに対して、互いに対話する。

3.その対話の過程で、具体的な行動の根拠が明らかになってくるが、それらの根拠が、社会政治的次元と宗教的次元にわけて考えられているのか、そして、それらは完全に異なった位相として考えられているのか、それとも異なった位相ではあるがアスペクトなのか、あるいは、社会政治的次元は宗教的次元に根拠づけられているのか、といった異なった議論の水準を司会者が提示して、これらの水準をもとにさらに対話する。

4.対話が進行してきたら、そこで、「根源的な平和とはいったい何なのか」を司会者が各登壇者に問いかけ、各登壇者同士が対話する。

という展開をとるべきではなかっただろうか。いわば、「戦争から平和へ」というテーマの変遷を軸として、身につまされる具体的な問いから出発して、それを煮詰めることを通して、「平和」の実相に迫るというスタイルである。

 以上の認識を基に、以下、第三回目の宗教間対話の進行上の諸問題を指摘しておきたい。

1.第一ラウンドの具体的な問いが多すぎた。

2.司会者の話す速度が早く、また登壇者の話をまとめすぎたために、対話が促進されなかった。

3.対話型講義と宗教間対話における対話の作法はやはり異なっている。

4 本来第二ラウンドが中心であるべきなのに、第一が長過ぎた(2時間)。

5.座長が、聴衆を配慮し、時間割を忠実に守ろうとするあまり、全体討議を15分延長し、第二の時間を縮めた。

6.第一の司会者の司会者権限が強すぎたので、第二にも影響し、各登壇者は受け身になって、自発的な発言をしなかった。

7.第二の司会者の最初の問い「異なった宗教同士がどうやって仲良くしていくか」は誤りである。たとえば、「第一をふまえて、根源的平和とは何か、ご自身の信仰の内容をふまえて、お話ください。」とすべきであった。

8.司会者の概念整理が必要であった:「くに」「おびえ」など

9.「宗教者ではないけど、小林さんに<も>うかがいます」という司会者の発言は、非宗教者も混ざった宗教対話という今回の対話の趣旨を理解していないように思われる。

10.司会者の二番目の問い「宗教にとって根源的平和とは何か」に対する各登壇者の答えから、対話が出発するところだったが、その問いが始まったのが、16時53分、各登壇者の答えが終了したのが17時7分で、その後の対話には15分しか使えなかったのは、たいへん痛いところである。

11.また、司会者の各登壇者に対する「ご教示いただく」という表現は、宗教間対話で使用すべき表現ではない。宗教者の身体化された腰の低さ、謙虚さが出てしまった。こうした表現は権力論的な上下関係を生み出すので、対話には不適切ではないだろうか。

12.第二の途中、高柳氏が業を煮やして、司会者役割を務めようとしたが、これは本来司会者の役割である。

 

4.今後の課題と展望

 

 以上、三つの「宗教間対話」を資料としながら、宗教間対話のアスペクトと壁、問いと設えに関する諸問題、および進行の諸問題について考察してきた。

 本稿の最後に、宗教間対話の今度の課題と展望について、何点か記しておきたい。

 

 4−1.ラウンドテーブルの展開の問題点

 

 第一回目の「壁は乗り越えられるのか?」を例にしてみよう。

 この対話では、会場設営上の諸問題があったのだが(6)、そうした緊急事態であったればこそ、司会者のコントロールが必要とされるところであった。たとえば、基調報告と現場報告終了後、司会者は論点を整理したが、議論をポレミックに活発にするための起爆剤として、小原氏のサロン批判に対する応答を各討論者に求めたほうがよかったであろう。そして、その議論の後、目的性(方法、内容を含む)の議論へと進み、たとえば、目的性の序列というトピックを討論者に投げかけても面白かったのではないか。

 また、休憩時間の間に、論点をパワーポイントで図示し、ラウンドテーブルの冒頭で活用したら、より議論が進展したかもしれない。ラウンドテーブル方式を討論者が十分に理解していなかったこともあるが、司会者は通常のシンポジウムのように、もっとイニシアチブを発揮してもよかったのではないだろうか。

 次に構成上の問題であるが、基調報告と現場報告の内容を事前に討論者と共有しておいたほうがよかったかもしれない。もちろん、その場のライブ感が損なわれることになるが、学者による会合ではないので、この点少し考慮すべきであったろう。また、ラウンドテーブルから登壇した本山氏と高柳氏には、コメンテーターとしての役割を期待していたのだが、事前打ち合わせが不足していたのだろうか、両氏にはその自覚はなく、結局、司会者がコメンテーターの役割を若干引き受けることになってしまった。いずれにしても、宗教間対話を実践/研究している研究者をコメンテーターとして登壇してもらうべきであった。

 討論者に関しては、いま言及したように、学者ではなく宗教者である、ということをしっかりと認識しておくべきであったと思われる。つまり、宗教者は学者に比較して、議論の場に慣れていないばかりか、実際と当為の両面からきわめて謙虚であり、批判に対する反批判的応答をせず、まず受容する人たちなのである。指摘や批判に対しては、そのハビトゥス上それを達観し、傾聴してしまうのである。ネガティブに言うとこれはきわめて宗教「臭い」ところであり、よりアグレッシブに主張を闘わせてもらいたいと切に願うものである。

 

 4−2.サロン批判をめぐる議論から

 

 他者を理解しようとする宗教者の倫理的態度はきわめて賞賛すべきことであるが、こうした態度は、開かれた討議としての宗教間対話という観点からすれば、たいへん「サロン」的に映ることだろう。小原氏のサロン批判の一端もこうした「臭さ」に対する批判から来ていると推測される。

 ほとんどの討論者は、サロン批判をまずは受け入れて、真摯に反省したり、日本には宗教闘争という切迫した状況がなかったと歴史的に分析したりした。あるいはこの話題に深く立ち入らなかった。

 しかし、1.日本の宗教者は伝わる言葉を持っておらず、国内外に向けて発信できない、2.対話の現場で酒を飲むなどというのは日本宗教の特殊性であり、それに対して無自覚である、3.自殺、格差、貧困という、きわめて厳しい切迫した現実があるにもかかわらず、そうした問題に真正面から向き合っていない、という小原氏の外面的なアスペクトに関する批判に対して、各討論者は、まさに真正面から積極的に応答していなかったように見受けられる。

 これでは、ネガティブな意味で「サロン」と言われても仕方がないと思われる。あるいは逆に、「サロン」で何が悪いのか、と主張して、「サロン」概念批判を展開してもよかったのではないかと思う。宗教者である討論者が、「宗教」そのものを布教するとか、求道的な側面をより重視するというのは、宗教者としてある意味で当然とも言えるからである。この点については、日本の特殊事情という面の指摘だけで留まらず、今後の重要な課題としたいところである。

 

 4−3.正しい問いと設え

 

 第二回目の「信仰と災禍―その不条理を問う」の失敗の本質は、正しい質問表現をしなかった、という点に集約できるであろう。そして、そうした適切な問いを投げかけるには、用意周到な準備と設えが強く求められるのである。

 むろん、このシリーズでは、第二回目ではじめてじっさいの宗教間対話を実現することができたことは、それ自体がきわめて大きな収穫であった。十分な総括とは言えないまでも、少なくともここで指摘したような課題が明らかになったことはたいへん貴重なことであろう。

 上述したような「ラウンドテーブル」という討議の空間的設定もうまく実現することができたことは、本宗教間対話と全体討議の活況の基礎である。第一回目とは異なって、オーディエンスに背を向ける形で、聴衆の存在を気にせず対話に集中する場を作ることができたのは僥倖であった。

 そうした空間的な設えによって、宗教間対話で見られがちな悪い意味での「サロン」状況を回避することができたこともまた大きく評価されてよいことである。あとは、どのように対話を深められるのか、その具体的な方法を、対話の経験を踏まえながら、どれだけ蓄積して生かしていけるか、ということにつきるのではないだろうか。

 そして、最後に改めて確認しておきたいのは、次の三点である。

1 司会者役割の重要性(7):司会者は、適切な問いの設定と概念整理、および控えめなフォローと活性化を心がける必要がある。

2 打ち合わせの徹底:問いの文言、流れのシミュレーションをある程度想定しておかなければならない。

3 聴衆を気にしない:あくまでもオブザーバーである聴衆の位置づけをどうするかはまたきわめて重要である(8)。

 

 4−4.宗教間対話という実験

 

 なぜ、宗教間対話をするのだろう?

 本稿で扱った、シリーズ「いま、なぜ宗教間対話なのか」の三つの宗教間対話では、宗教間対話の目的、方法、意義、壁、災禍と信仰、平和と宗教について様々な実践的立場から興味深い議論、対話がたしかに行なわれた。

 宗教とは何かをめぐる知的あるいは伝道的関心、世界平和、そして救済・・・・・・。

 しかし、これだけでは、宗教間対話の魅力を語り尽くすことはできないだろう。

 本宗教間対話シリーズでは、宗教間対話の魅力の真骨頂が、「他者を知る楽しさ」「そのスリリングな面白さ」という言葉で、まさにエキサイティングに表現されていた。これは、言い方を替えれば、「自己が他者に開かれて行く」、すなわち、「求道」である。この意味で、宗教の普遍的理解もこの「求道」の中に含めてもよいだろう。

 とすれば、宗教間対話とはサロン的と批判されようが、一番大本のところでは、「求道」だと言うことができる。

 「求道」、道を求めること。私たちの「道」はどこにあるのだろう。それは果たしてどんな道なのだろう。今後とも、実験的宗教間対話を実践していくことを通して、この問いを問い続けて行くしかない。

 

(1)司会の樫尾は、諸発題を、宗教間対話の、1.目的、2.方法、3.意義の三つの視点から整理した。目的については、1.具体的課題解決、2.「宗教」の探求、3.求道、4.協力の四点が指摘された。方法については、従来の類型のように、1.対話、2.交流(生活、身体実践)、3.協力が確認された。さらに意義については特に、日本の宗教間対話に対するサロン批判が出された。

(2)宗教間対話の諸類型については、武藤亮飛の以下の労作が重要である。「外的宗教間対話と内的宗教間対話」 『宗教学・比較思想学論集』 (11), 71-82, 2010-03、筑波大学宗教学・比較思想学研究会参照。

(3)宗教間対話を促進する要因、阻害する要因に関する討議は、今後とも継続する必要が依然としてあるし、前述したように、ラウンドテーブルには宗教間対話を実践/研究している研究者がコメンテーター/インタープリターとして登壇することが望まれる。本シンポジウムのミニ版として、たとえば宗教間対話の目的に関するメタレベルの集中討議を行なってみることもまた興味深いだろう。あるいは、じっさいに他宗教の宗教実践を行なってみて、その体験を分有する、体験を通した対話にも可能性があるにちがいない。

(4)ちなみに、筆者は、アメリカ宗教社会学会でローランド・ロバートソンがそう語っているのを聴いた経験がある。

(5)主催者である日本宗教ネットワーク懇談会は、大きな失敗をしたが、そこから大きな学びを得たのである、と大いに反省し、ポジティブに次に生かし、さらに進まなければならない。

(6)東日本大震災の影響で教室が変更されてしまったために、当初予定していたようなラウンドテーブルの設えをとることができなくなってしまったので、舞台はパネラーが横並びする通常のシンポジウムの形態になってしまった。そのため、討論者が司会者から意見を求められるまで沈黙する傾向が強くなってしまった感は否定できない。

(7)3−2.の進行上の諸問題の、1.4.5.以外はすべてこのようにまとめることができる。

(8)今後の展開について考えることは実に深刻である。三回の宗教間対話を行ってきたが、実質的に実際の宗教間対話は、第三回で二回目である。第二回目と比較すると、個人的には第二回目のほうが宗教間対話になっていたと思う。第三回目は、対話型講義と各登壇者の意見をうかがっただけに留まったのではないだろうか。第一回目の後にワークショップ形式の少人数の宗教間対話を行なったが、そのほうがやはり望ましいのであろうか。これら三点の課題をクリアできれば、よりより宗教間対話になると推測されるが、公開のラウンドテーブルという形式についても再考の余地はあるだろう。

 

 

 

 

 

 article 9: The End of the Vitalistic Conception of Salvation: An Inquiry into Conceptual Validity in Modern Japanese New Religions

Naoki Kashio

Keiô University

(Religion and Society No.10., The Japanese Association for the Study of Religion and Society., 2004, pp68-81.)

1. Introduction: Defining the problem

The essay on ‘The Vitalistic Conception of Salvation in New Religions’ (henceforth, the vitalistic thesis) first proposed the ’vitalistic conception of salvation’ as the idea that reveals the distinctive character of Japanese new religions. The concept rests on the equation that the Cosmos = God = Life. It is the belief that the energy of this threefold body of Original Life flows into and nurtures the world, the self, and all existence and the adoption of a humble attitude towards this state of affairs.  Therefore, the idea gives priority to life in this world rather than to death.

Four and a half centuries after it first appeared, does this life-centred quality of the vitalistic conception of salvation still retain its validity for making sense of the  fundamentals of Japanese new religion?1

To anticipate the conclusion of this paper: since the publication of the vitalistic thesis, the vitalistic conception of salvation has been a concept in ever increasing crisis. In my opinion, at least, the concept has lost its effectiveness in the present.

I suggest that, since it is wholly focused on life, the vitalistic concept is lacking in ideas or practices that attempt to confront the problem of death head-on. I believe that, for example, this led some young people to become attracted to Aum Shinrikyô. Even if it were possible to transcend death, to experience it even, how can one come to confront it in the midst of life; to live with death in its true meaning?

With one exception [Mori 2001], Japanese new religions have, on the whole, not ventured to respond to this difficult problem. The question we ought to ask, therefore, concerns the extent to which contemporary Japanese religions can be made intelligible according to a vitalistic sensibility; where are the limits of the vitalistic conception of salvation? 2

In an attempt to answer this question, I have chosen to consider Sekai Kyûsei Kyô and Mahikari 3, two new religions that I have been researching for several years.4 Sekai Kyûsei Kyô (henceforth, Kyûsei Kyô) was included by the authors of the vitalistic thesis among those religions understood to possess the vitalistic concept. Mahikari, on the other hand, was given mention in the thesis, but was considered not to have the vitalistic concept.     

As for the text of the vitalistic thesis, I shall make use of the version published in the journal Shiso. Furthermore, because Tsushima - the principle author of the vitalistic thesis, employs the term ‘vitalistic world-view’ in Shin Shûkyô Jiten, I shall not make any fundamental distinction between ‘vitalistic conception of salvation’ and ‘vitalistic world-view’. This is because I also believe that, while the vitalistic conception of salvation is, of course, a concept of salvation, at the same time, it expresses a world-view.

2. Is the vitalistic conception of salvation experienced by members of new religions? : Sekai Kyûsei Kyô as disproof.

It is of interest that the vitalistic thesis was the assertion that the vitalistic conception is the common structure in the thought of Japanese new religions, but was also, at the same time, an analysis of this concept in its already critical state. The authors wrote the essay at the very moment of the end of the vitalistic conception of salvation in Japanese new religions. Whether this end was already portended, I do not know, however, this ending gives a hint, perhaps, of the uncertainty of the concept as it was drawn out into an ideological form. Could it be that, after the thesis was written, there not a little awareness among the its authors of the crisis of the vitalistic conception of salvation as an idea?

Guiding my inquiry, then, is this attempt to think about the end of the vitalistic conception of salvation through the example of Kyûseikyô, considered by the vitalistic thesis to be a religion with the vitalistic concept of salvation.

As for the ’contemporary crisis’ of the vitalistic conception, the thesis stated that, ’the vitalistic conception of salvation still endures among the ordinary membership of (Japanese) new religions. On the other hand, however, a considerable degree of change is occurring among the leadership of the new religious organizations’ [Tsushima et al., 1979:105-6]. The authors analyzed the emergence of four changes in the direction of the vitalistic conception of salvation and of two new concepts of salvation. These four changes were given as: 1., Culturalism; 2., Expressionism; 3., Moralism; and 4., Social Reformism, and it was argued that these have led to the weakening of the vitalistic concept.

While connected to folk religion, Japanese new religions present a modern character. Yet, the vitalistic thesis noted that ‘the once present sense of fulfilment, in harmony with the Original Life, is now dissipating’; hence, the contemporary crisis of the vitalistic concept [Tsushima et al., 1979:107]. In this way, then, the essay adopts a vantage point that looks back from modernity, beholding the pre-modern period as a vanished utopia 

In my view, however, the position of Kyûseikyô, at least, is somewhat different, in that its vitalistic concept was in ‘crisis’ from the very beginning of the foundation of the movement.

In addition to the fundamental practice of jorei - a technique of purification of the body, Kyûseikyô also engages artistic practices, an ecological movement, based on nature farming, and a health movement. Kyûseikyô is thus a syncretic religion, in which the tendencies of expressionism and social reformism were there from the start. Accordingly, expressionism and social reformism were not tactical features - purposeful changes made later by the leadership; on the contrary, it is more appropriate to see these as concrete forms of practice inhering in the vitalistic conception of salvation particular to Kyûseikyô. The leadership of the religion ensured in advance a plurality of sites for opening up and making possible the realization of the sustaining power of Original Life (the leaders often refer to this as ’depato’). Because of this, Kyûseikyô did not express any moralistic tendency, but, it seems that, contrary to the aims of the leadership, a considerable number of members were not able to fully grasp the concrete meaning and method of jorei, so that the practice came to lose its significance for them - although, this appears to be changing, as we shall see below.    

The vitalistic thesis gave a uniform meaning to this-worldly salvation as found in the doctrines of new religions; ‘a positive, soteriological import given in the efflorescence and the fullness of life in this world” In the thought of Kyûseikyô, salvation is accomplished with the realization of ’heaven on earth’. Jorei, then, is a pragmatic ritual practice, a “direct and instantaneous means’ for working towards this salvation; “through these actions themselves, believers can experience, if only temporarily, a feeling of contact, communication and union with the Original Life’ [Tsushima et al. 1979:100]. 

If one were to invite members to give us the meaning of their practice or the gist of the doctrine, they would surely respond with a faithful account of the vitalistic concept of salvation. To become a believer is to assimilate the jargon of doctrine and make competent use of it, so that personal experience, recast into the shape of doctrine, comes to be expressed with the same repetitive vocabulary. Thus, the vitalistic conception of salvation could be said to inhere in what members say, because their statements reproduce the doctrine as it is.

There is however, the underlying problem, here, of the slippage between doctrine and practice. Taking into consideration that members of Kyûseikyô regard jorei as the absolute, central practice among all their social and ethical activities, I suggest that, by interpreting this practice, we can locate the practical meaning of the vitalistic concept for members. 

Though the reasons are yet not completely clear, I have found that members of Kyûseikyô in France, and in other countries where I have carried out research, experience fluid and vibrations inside their bodies while engaging in the practice of jorei. In Japan, on the other hand, few members are receptive to this as a well defined experience, or interpret it as the reception of this-worldly benefits. Thus, the incapacity for members to experience a vitalistic force during the practice of jorei - widely taken to be the most important activity in Kyûseikyô, reveals a slippage between doctrine and practice. If, therefore, the vitalistic conception of salvation exists in truth, beyond the expressions of doctrine, then it might, perhaps, reside in the shared activities of members: in their altruistic practices, discussions and divine service, and in jorei; and so, in the social relations between members, in their community with each other, with older members, with advisors and leaders.

It may be easy to imagine that this transference of vitalistic force into the space of social relations -  the Durkheimian idea of vitalistic force as inhering in sociality, is intensified by the conditions of modern society, in which it is difficult to have any feeling for the Original Life, any sense of being nurtured by it, in everyday existence. The right-minded believer represents the image of  vital force - transfigured into the social relations in the religion, as the “heaven on earth’ (chijou tengoku) that never appears, despite the passage of time.

From the point of view of cosmology, the religious organisation is a mesocosm; a utopian model of salvation. The “sense of aggrandizement” - one of the social factors behind the vitalistic conception of salvation, has already become difficult to experience, but it might be emergent, perhaps, in the collective consciousness achieved during festivals or gatherings, in the communality of the religion as a utopian mesocosm. Despite this last possibility, however, I have little impression that the lives of members could be said to be ‘vitalistic‘. The following point, therefore, is not simply relevant to Kyûseikyô, but applies, I believe, to new religions in general. Through the soteriological practice of jorei, members of Kyûseikyô come to experience a particular world and a way of life different to their former existence. But the progression towards salvation is not to be achieved through any sort of spontaneous practice for the broad purpose of “becoming one with the Original Life, and sharing in the efflorescence of vitality and fertility”. Salvation is to be achieved, rather through a quite limited repertoire of activities, prescribed by the religious organisation: jorei, proselytism, cleaning and the giving of donations. If the deepening of religiosity involves the mastery of doctrine, it would seem possible to say that members, on relating their practice to doctrine’s limited expressions, and perceiving the lack of fit between the two, would be moved to quit the religion. In most cases, in fact, the sense of belonging that members have for the religion only comes to be heightened.

The vitalistic concept is an image of openness, of an existence that is free and full of vitalistic force; it is the realization of being kept alive by the Original Life. Then there is the religion itself, which, seen from the outside, seems closed; placing restrictions on the beliefs and practices of its members. There is, also, the slippage between the beliefs and practices of members. What we might call, therefore, the ‘paradox of religious organisation’ lies between the vitalistic concept and the beliefs and practices of members of a new religion. The authors of the vitalistic thesis assumed that the vitalistic concept of salvation exists in a particular form, inside this structure.

It is therefore of interest that, from the 1990’s onwards, Kyûseikyô has partially introduced ‘culturalism’ -  taken by the vitalistic thesis to be one of the manifestations of ‘contemporary crisis‘, in an effort to bypass the ineffectiveness of the vitalistic concept. The culturalism of Kyûseikyô involved a systematization of its doctrine according to  scientific knowledge - as is clear in the video, ‘The Science of Jorei’,  and, at the same time, with the founding of the JSC (Jorei Science Center), it was an attempt to move the practice of jorei beyond religion, into science.

Somewhat different to the former practice of jorei, this non-religious jorei can be performed by anyone and does not require the wearing of the Ohikari, the pendant that shows that one is a believer. However, among members who have learned this jorei practice at study sessions held at Kyûseikyô centers - and especially among those ordinary members, to whom the hidden essence of jorei practice had not been previously taught, many feel that, previously, they had not properly learned an effective method of jorei practice, but now, they understood it for the first time.

Here, we can understand that, in the same manner as expressionism and social reformism, the “contemporary crisis” of the vitalistic conception functions moves in the opposite direction to the way it was described in the vitalistic thesis. It simply does not hold for Kyûseikyô that “the vitalistic conception of salvation still endures prevails among the ordinary membership of Japanese new religions” [Tsushima et al., 1979:150]. The common impression, then, among members, of ‘understanding’ jorei ‘for the first time’ owes to the introduction of culturalism into Kyûseikyô from the 90’s onwards, but whether this is the same phenomenon as the vitalistic conception of salvation, the question must be set aside for a separate discussion.    

3. Two aspects of vitalism: Conceptual restrictions in Mahikari.

The vitalistic conception of salvation already shows itself, in the vitalistic thesis, as an idea in crisis. My second example, Mahikari, was described in the thesis, with the following reservations, as “a new religion or movement with a composite character”. It was further classed among the latter of two kinds of counter-culturalism; a new concept of salvation that ’attaches great importance to mystery and the supernatural’ [Tsushima et al., 1979:108]. According to Tsushima et al., in Mahikari, “believers search for the meaning in miracles, esoteric ritual and personal experiences of the mysterious; all things given prominence by this new religion itself” [Tsushima et al.1979:108]. Yet, because Mahikari has reached the limits of its development, with maintenance of the organisation, and a decline in miracles, in my view, Mahikari can be said to be a syncretic religion, which, nevertheless, has characteristics of the vitalistic concept.

Why, however, did vitalistic thesis rule out Mahikari as a religion having the vitalistic conception of salvation?  It is in this exclusion, I believe, that we can perceive the end of the vitalistic concept. Despite this exclusion, the following quote - taken from the goseigen, a Mahikari doctrinal text, clearly expresses vitalistic notions:

 

“You humans are not living by yourselves. You are allowed to live. You shall help people be grateful for everything, and help them master the principle of recompensing God. This is important for people who live under the principles of God. Help them live with the principles of God. Then, people will live a life that is full of joy and happiness. People will attain the spiritual realization that this is a wondrous way to change their lives into lives directed towards God - overflowing with joy, and based on the divine principles. Selfish ego is an obstacle.” (Goseigen:58).

 

Here, then, we can see the vitalistic concept as it is described in the vitalistic thesis. Because it has the soteriological practice of tekazashi - involving purification and the renewal of a pure heart, I regard Mahikari as being of fundamentally the same configuration as Kyûseikyô. According to the vitalistic thesis, Mahikari espouses a basic system of thought, identified by the vitalistic thesis as counter-culturalism and eschatological fundamentalism. Mahikari differs from Kyûseikyô only in its concept of salvation. In Kyûseikyô ‘positive meaning is not given to the afterlife, but to this world...furthermore, many new religions take rebirth to be a rebirth in this world, as a human being. This rebirth is, moreover, thought of as a kind of salvation’ [Tsushima et al. 1970:98]. Life is seen as never ending, and there is, consequently, no stress on death. By contrast, Mahikari thought places much stress on the death of individuals and the world.

Now, taking as a guide these two varieties of ‘death’ in Mahikari thought - the death of individuals and the world, I want to think about the conceptual limits of the vitalistic conception of salvation. 

The vitalistic conception of salvation in Mahikari is similar to that in Kyûseikyô, but Mahikari tends to emphasize the continuing existence of the individual in the world after death, and their present relation towards it . This includes a stress on reishou, ‘spirit disturbance‘, the negative influence of spirits on the individual, and on the ascetic training the individual undergoes in the astral world.

Mahikari grew in influence during the so-called “period of high economic growth” from the 1970’s onwards; a time when it became more difficult to experience any “sense of aggrandizement“, of efflorescence, in everyday life. I surmise that the reasons for the expansion of Mahikari can be found in its doctrine. That is, could it be that the Mahikari conception of “death” worked to span the gap that had opened up between the socio-economic conditions of Japanese society and the vitalistic conception of salvation?

On the other hand, through the practice of tekazashi, derived from the practice of jorei, the leadership of Mahikari predict the liberation of members - in ’the drama of the death of the egoistic self and the rebirth of the altruistic self’; a freeing experience of flow within the body that connects one to the Original Life and the vitalistic conception of salvation. In point of fact, however, this expected liberation is negated by manifold restrictions: secrets, spirit afflictions, and taboos concerning the organisation of Mahikari and the social relations between members. In this, members  become ordered according to a hierarchy which places at its apex Mioya Moto Su Mahikari Omikami (god); Sukuinushisama (the founder); and Oshienushisama (the spiritual leader); the bodies of members made subordinate to this threefold body.

In Mahikari, as in Kurozumikyô, the fundamental wrong, kegare, is understood as the withering (gare) of vital force (ki); the most basic transgression is the disavowal of god, so that, the turning towards god (kamimuki ) involves a turning around of one’s innermost attitude (sounen tenkan). But, as a result of the counteracting tendency towards restriction, the escape from suffering that follows from the avowal of god is not directly related to any expansion or recovery of vitalistic power. Members feel weighed down by adversity, oppressed by the strictures of life, and they become, as it were, dislocated from the vitalistic concept of salvation.

Here, I want to be clear that my argument is not that the restrictions placed on members, owing to Mahikari doctrine and practices, represent some divergent form of the vitalistic concept of salvation. Rather, I maintain that it is not possible to fully interpret or explain Mahikari by means of the concept as it was envisaged in the vitalistic thesis.

In Shin shûkyô Jiten - in a section following his discussion of the ‘vitalistic world-view”, common to many Japanese new religions, Tsushima notes that the religious groups descended from Sekai Mahikari Bunmei Kyôdan accentuate the notion of the spirit world [Tsushima 1994:227-31]. He also indicates that the concept of Great Life (daiseimei ) ’can coexist with different ideas such as the idea of the spirit world’. But it is still not clear from this, how elements of the vitalistic concept combine with, for example, elements of the idea of the spirit world, to form up into a particular cosmology. Neither is it apparent how new members are brought in and a “religious society” is established.

The other notion of death in Mahikari concerns the death of the world. Despite the fact that the 20th century did not end in apocalypse, as Mahikari had predicted, most members did not quit the movement. I suggest that, aside from the prophecy having been rescued and readapted, the members did not leave, indeed, because the social relations between them were more highly valued than the eschatological doctrine itself. And yet, I believe that the death of the world, as emphasized in the doctrine and proselytizing activities of Mahikari, cannot coexist with the antithetical concept of vitalistic salvation.

The vitalistic thesis described counter-culturalism and eschatological fundamentalism as new kinds of soteriology, at odds with the vitalistic conception of salvation. Be that as it may, Tsushima - in Shin shûkyô Jiten, states that it is “possible to consider the idea of cosmic renewal, which calls for the total conversion of this-worldly order, to be at variance with the optimism and this-world affirming stance of the vitalistic concept of salvation. In fact, the pessimism towards this-worldly order, and the severity of divine judgement, found in the idea of cosmic renewal in Japanese new religions, is substantially moderated in actuality” [Tsushima 1994:235]. Tsushima therefore recognizes the possibility for these different ideas to coexist in Japanese religion.

However, Mahikari stands between the vitalistic concept and a fundamentalism that marks out the importance of the juncture of death - compared with Kyûseikyô, for example, with its lack of emphasis on death and where strictures placed on the individual are comparatively moderate. The calling to perform tekazashi - the central practice in Mahikari, derives from an eschatological imperative that draws attention to the death of the individual. But, at the same time, this imperative largely blocks out any sense members might have for the vitalistic concept; for the gush of life, in which the world does not await some future fall, but, instead, runs over with self-generating force.6

I suggest that the blockage and displacement of vitalism, effected by the Mahikari notion of the death of the individual and the world, has its origins in a sense of urgency existing in Mahikari itself, and that also existed in the social and cultural conditions from which Mahikari emerged. The vitalistic thesis branded Mahikari as having a notion of salvation different to the vitalistic conception, but I hold that Mahikari should have been classified under this latter concept. In defining the idea, the thesis over emphasized the optimistic, this-world affirming character of the vitalistic concept, and so, because the eleven religions included in the discussion - under the rubric of the vitalistic concept, displayed this “positive” vitalism, it failed to grasp what we might call the “negative” vitalism of groups like Mahikari.

My point, then, is that the vitalistic concept of salvation is incomplete, as it stands, and so one must conclude that it remains inappropriate for understanding all the aspects of Japanese new religions.

4. Conclusion: Rought and overflow spirituality in religious organisations

I have argued, in the case of Kyûseikyô, that the vitalistic concept has no deeply rooted existence among ordinary members, and, that the “contemporary crisis’, as proposed by the vitalistic thesis, does not hold true. In the case of Mahikari, we have seen that the vitalistic concept must be expanded, if we are to throw more light on the ideological characteristics of Japanese new religions.

The vitalistic concept has simply lost its validity- at least in terms of the religions descended from Sekai Kyûsei Kyô, such as Kyûseikyô and Mahikari, and this loss cannot be explained by appealing to the organisational divide between the leadership and ordinary members. The contours, then, that run from Kyûseikyô through into Mahikari reveal the following figure, already described in the vitalistic thesis: the difficulty, in modern society, of having any sense of connection to the Original Life.

To indicate the creative source from which Life issues forth, is to determine the world of life in the vitalistic conception of salvation. This is, then, a view of the world as an outpouring of life. But is it not exceedingly hard to attain such a neo-platonic worldview in modern Japan? In the New Age vision of the world, the import of spirituality is the sense of connection to a life that cannot be seen.7  But here, the ontological grounds for the existence of the self, nurtured by these relations to Life unseen, are not given in the beginnings of life, in forces ab initio, such as ’god’ or ‘power’; they are given in its end, in death. It is impossible, of course, to experience death itself, but, it is precisely because our lives are suffused with the presence of death [Kashio 2002], that this is the only way in which we are able to determine the world of life.

The image of the death of the world and of the individual is that there is a self-sufficient world within the world of reality that posits the origin of its structure. This image equals a representation of social consciousness that a worldview cannot be constructed. In Japan, from the 1970’s onwards, developments in the media, in technology and a rising prosperity, partially alleviated existential suffering in the world. At the same time, though, the common frames of social reality for the Japanese, such as blood, land, and family, became contested; their traditional meaning free-floating.   

In the so-called post-modern world, a sense is lacking that there is communality, a feeling of being nurtured by Original Life, reflected in everyday social relations; lacking even, is the sense that this communality once was there. How can a way of life and death of durable values be established in the midst of this lack, or in this absence of lack? 

How might an alternative be found? In Kyûseikyô and Mahikari, for example, when a person receiving the healing ritual of jorei dies, members neither have any persuasive explanation for the failure of the rite, nor do they have any way of improving the method itself. Here, then, is the disclosure of the limits of the vitalistic concept of salvation, and the call of society and religion for a different kind of salvation concept.

  As we have seen, the vitalistic thesis described the appearance of new concepts of salvation, citing counter-culturalism and eschatological fundamentalism as instances of these. [Tsushima et al. 1979:107-8]. The rise of eschatological fundamentalism is indeed remarkable among alternative attempts to condemn the absence of communality, and to restore the latter.  The Jôdo Shinshû Shinran Kai is a case in point, of a growing fundamentalist confrontation with the problem of death; the major vulnerability of the vitalistic conception. The ethos of the idea of death in modern Japanese society can be described as a “desire for the meaning of death”, which brings about the sense of the lack of communality. Although death cannot be wholly known, if one proceeds from the supplementary relation of life to death, then one can speak, inversely, of “a desire for the meaning of life”. The origin of life cannot be imagined, but the coming of death is a certainty.

Jôdo Shinshû Shinran Kai, what Mori calls ‘Shin Buddhist Fundamentalism”, tackles the topic of death head-on, placing it in the centre of their teachings and practice, while established Buddhism and many new religions avoid it. Jôdo Shinshû Shinran Kai confronts believers with the proposition that, ‘everyone will die and go to hell“ (based on ‘the one great issue: the afterlife”, the statement of Rennyo, eighth grand abbot of Hongan-ji). 

Jôdo Shinshû Shinran Kai asserts that however much a person may gain power and fortune, must throw it all away in death and be burdened with emptiness. Equally, one awaits death with a fear of going to hell; the anxiety and discontent in life in the present is deeply rooted in this point. From here, the question of how to attain salvation from this agony - that “life is hell and death is hell’, becomes the central topic of Jôdo Shinshû Shinran Kai. Their method of salvation turns on ‘the decision of faith’, and that salvation ‘must be attained within life” In this, then, it differs from ordinary Jôdo Shin Buddhism.

If the decision of faith is accomplished in this world, the passage to heaven is achieved, and it is possible to attain ’absolute happiness’ in this world. What is interesting, then, is that the attainment of absolute happiness is ’the purpose of existence’ and the ’meaning of being alive’ [Mori 2001:141]. In this, it is possible to recognize a new kind of vitalism that attempts to overcome the problem of death. We have moved, then, from a positive, to a negative vitalism, and finally, to a new kind of vitalism that tries to go beyond death.

However, the concept of a positive vitalistic concept of salvation, referring to the origin of life, has come to an end. It is just not possible to make use of a concept of vitalism that is without presuppositions; that does not confront the problem of death.

A vitalism that affirms the folk religious reality, the realization that the self is nurtured by Original Life; spirituality thought to inhere in an invisible, imaginative communality; and a vitalism experienced and created in concrete personal relations: how can these form into any practical or ideological opposition to the fundamentalism of death?  Though it seems that the fundamentalism of death is not predominant in modern Japanese society, can it be overcome by some other, rigorous system of thought? This is a point for future deliberation and research.

 

 

Notes

1.  Attempting to move beyond the rather inapt concept of vitalism is a problem of great interest. But it is rather difficult to express what this inaptness is, exactly. For, despite the longstanding criticism of religious concepts such as this, does this problem of inaptness not derive from the misguided project of using vitalism to interpret modern religion in the first place? Equally, this inaptness comes out of an attempt to think about modern religion with a concept that is not directly connected to the issue of salvation. In order to break this deadlock, I propose, 1., to consider the concept in relation to a single modern religion; 2., to use direct statements of believers as data; 3., to make use of a salvation concept with a broad vitalism as its object. From this line of approach, it can be seen that the vitalistic concept is invalid, because of the change in historical and social conditions, and the appearance of other new religions, since the concept was first proposed.

The debate mirrors the controversy of, some years ago, concerning the concept of new-new religions. That is, in stating that “believers assimilate the teachings, and then put them into practice”, the vitalistic thesis makes the presumption that the religious organisation equates with the believers in it. Some twenty years after the publication of the vitalistic thesis, this assumption - of treating religion and believers as some undifferentiated whole, still prevails in research on religions, methods of doing fieldwork, in journals on religion and ethnographic theory, etc. With regard to this question of religion in modern society, in particular, in devising models of the action and values of individuals, we should understand that religious communality constructs alternative realities by a process that selectively associates belief to practice, drawn from the social and cultural background of believers [Kashio 1999].

Research should aim to explicate modern religions through the members of such movements. Be that as it may, this paper is basically limited to the problem of Japanese new religions and the validity of the vitalistic concept of salvation.

2.  The authors of the vitalistic thesis stated that ’we define “doctrine”, not as the narrow meaning of systematically formulated teachings, but as religious ideas broadly accepted by believers’ [Tsushima et al., 1979:110]. Despite this, however, so that the vitalistic concept could be made explicit, the authors depended upon textual data (“periodicals and holy books published by the religions in question, and also research on these religions”).

In dealing with the problem of cooperation and communality in a religion, it goes without saying that it is crucial to pay attention to the pronouncements of the religious leadership, but one cannot claim unequivocally that such statements are accepted literally by ordinary members. Rather, by sticking closely to the particular, local sites of practice in a religion, is it not the case that, for ordinary members, the statements of the leadership can be given new interpretations, adapted to different contexts, or simply abandoned?  In short, in taking account of how a religious worldview is constructed, our methodology must take into consideration the crucial role of the individual in this process. That is, if the vitalistic conception is present in a particular religion, what form does it take?, if it is absent, then what kind of conception is there?

In any case, leaving aside for the present the methodological critique of the vitalistic concept, this paper raises the question of the present validity of the vitalistic concept, a notion held by the authors of the vitalistic thesis to be the defining characteristic of Japanese new religions.

3.  Here, Mahikari is the group Sûkyô Mahikari. Sekai Mahikari Bunmei Kyôdan was established in 1959 by Kotama Okada. A schism occurred after his death in 1974, and in 1978, Keisyu Okada – his adopted daughter, founded the sect of Sûkyô Mahikari. Though the vitalistic thesis discussed only Sekai Mahikari Bunmei Kyôdan, since both groups are basically the same in terms of their culture and practice, I see no difficulty in dealing only with Sûkyô Mahikari instead of the latter group.

4.  Concerning Sekai Kyûsei Kyô, from 1997, I began to conduct investigation into Sekai Kyûsei Kyô Izonome Kyôdan, at first, at its Atami headquarters and the Paris centre, then, from 1999, at the Shinjuku centre, Kitasaitama centre and at the Johrei Science Center and London Jorei Academy. From 2000, I began fieldwork at the Nara centre.

As for Mahikari, from 1992 I carried out research in the Paris main dojo, and at centres in Belgium and Luxembourg. From 1993, at the Saginomiya Middle dojo, as well as the main headquarters in Takayama. From 1995, Cotes D’Ivoire, 1996 Martinique, 1997 in England.

5.  From the account of Sakakibara Koichi, of the Planning Head Office.

6.  As a Mahikari member told me in 1995: “Mahikari teachings are certainly good but, I don’t feel any efflorescence. If the end of the world doesnt come in 2 or 3 years, I’ll quit.”

7.  For the concept of spirituality, see Kashio [ed. 2001] cf. also [2002].

8.  See Kashio [2001] for a more detailed argument.

9.  See Mori [2001]; cf. Kozawa [1997 Chapter IV].

References

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